変動為替相場制 (へんどうかわせそうばせい)
【概説】
1973年のスミソニアン体制崩壊に伴い、主要国通貨の交換比率が外国為替市場における需要と供給によって日々変動するようになった制度。日本では同年2月に移行し、戦後長らく続いた固定為替相場制による高度経済成長の前提が崩れる大きな転換点となった。
固定為替相場制の動揺とニクソン・ショック
戦後の資本主義経済は、1944年に成立したブレトンウッズ体制によって支えられていた。これは、アメリカのドルを基軸通貨とし、金1オンス=35ドルと定めた上で、各国の通貨価値をドルに対して固定する固定為替相場制である。日本は1949年以降、1ドル=360円という単一為替レートが設定され、これが輸出に極めて有利に働き、1950年代半ばから始まる高度経済成長の大きな原動力となった。
しかし、1960年代に入ると、ベトナム戦争の泥沼化や福祉政策の拡大などによりアメリカの国際収支は急速に悪化し、大量のドルが海外に流出した。これによりドルの金準備に対する信認が揺らぎ始めた。そして1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、金とドルの交換停止や輸入課徴金の導入を突如として発表した。これをニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼び、戦後の国際通貨体制を根底から揺るがす事態となった。
スミソニアン体制の崩壊と変動相場制への移行
ニクソン・ショックにより固定為替相場制の維持が困難になると、主要10カ国(G10)の蔵相会議がワシントンで開催され、1971年12月にスミソニアン協定が結ばれた。これはドルを切り下げつつ固定相場制を立て直そうとするものであり、日本の円レートは従来の360円から1ドル=308円へと大幅に切り上げられた。
しかし、一度失われたドルへの信認は容易には回復せず、国際的な投機資金が外為市場に流入し続けたため、スミソニアン体制による固定相場制はわずか1年余りで崩壊を余儀なくされた。1973年2月、投機的なドル売り・円買いの圧力に耐えきれなくなった日本は、外為市場を閉鎖したのちに変動為替相場制へと移行した。同年3月にはヨーロッパの主要国も共同フロート(変動相場)制へと移行し、ブレトンウッズ体制以来の固定相場制は完全に終焉を迎えた。
日本経済への打撃と産業構造の転換
変動為替相場制への移行は、日本経済に多大な影響を与えた。それまでの安定的で有利な為替レートの恩恵を失ったことに加え、移行直後の1973年秋には第4次中東戦争を契機とする第1次石油危機(オイルショック)が発生した。為替の不安定化と原油価格の高騰が重なり、日本経済は「狂乱物価」と呼ばれる異常なインフレーションに見舞われ、1974年には戦後初のマイナス成長を記録することとなった。こうして、約20年続いた日本の高度経済成長期は終わりを告げ、安定成長期へと入った。
しかし、変動相場制と石油危機という二重の試練は、日本企業の体質強化を強く促した。企業は円高による輸出競争力の低下やエネルギーコストの上昇を吸収するため、徹底した「減量経営」や省エネルギー技術の開発、さらには自動車やエレクトロニクス産業などの知識集約型・高付加価値産業への構造転換を進めた。結果として、日本経済は他国に先駆けて不況から脱却し、国際競争力を一層高めることになったのである。
プラザ合意と為替変動のその後の影響
変動為替相場制の導入後も、為替レートは国際政治や経済情勢によって大きく揺れ動いた。1980年代前半、アメリカではレーガン政権の経済政策(レーガノミクス)により高金利と「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)が進行し、過度なドル高が続いた。これに対し、1985年9月に先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁会議でプラザ合意が発表され、人為的にドル安・円高路線へと誘導することが決定された。
プラザ合意直前には1ドル=240円前後であった為替レートは、1年後には1ドル=150円台へと急激な円高が進行した。これにより日本の輸出産業は深刻な「円高不況」に陥ったが、政府・日銀による強力な内需拡大策と大規模な金融緩和が実施され、それが1980年代後半のバブル経済を引き起こす遠因となった。このように、変動為替相場制への移行は単なる金融制度の変更にとどまらず、その後の日本経済の盛衰を左右する決定的な出来事であった。