日米構造協議
【概説】
1989年から1990年にかけて、日米間の深刻な貿易不均衡を解消するために開催された二国間経済協議。従来の個別品目における交渉の枠組みを超え、双方のビジネス慣行、流通制度、社会インフラ整備など、経済構造そのものの是正を目指した。アメリカからの強力な「外圧」を背景に、日本国内の規制緩和や市場開放が大きく進む契機となった。
協議の背景:個別交渉から「構造」への転換
1980年代、日本はバブル経済の絶頂期を迎える一方で、巨大な対米貿易黒字を累積させていた。これに対し、アメリカ側では対日貿易赤字に対する不満が「日本異質論」や「ジャパン・バッシング」へと発展し、日米間の貿易摩擦は政治問題化していた。それまでも自動車、鉄鋼、半導体、農産物(牛肉・オレンジなど)といった個別品目の市場開放交渉が重ねられてきたが、対日貿易赤字の劇的な改善には至らなかった。
こうした状況下、アメリカは日本経済の閉鎖性の根源が、独自の商慣行や社会制度、さらには政府の経済政策といった「構造」そのものにあると主張するようになった。こうして1989年(昭和64年/平成元年)7月、アルケー・サミットでの合意に基づき、日米両国の経済構造に踏み込んで議論する日米構造協議(SII:Structural Impediments Initiative)がスタートした。
アメリカの対日要求と相互指摘の構図
協議は、日米双方がお互いの経済構造の問題点を指摘し合うという相互主義の形式が採られた。日本側はアメリカに対し、過剰な消費体質や貯蓄率の低さ、企業の短期的な利益偏重主義、教育水準の低下などを指摘した。しかし、実際の協議を主導したのはアメリカ側による日本への苛烈な改革要求であった。
アメリカ側は、日本の貯蓄・投資パターン(公共投資の過少)、土地利用政策(高地価の原因)、流通システム(大規模小売店舗法(大店法)による大型店の進出制限)、排他的な系列取引や談合組織、そして独占禁止法の不徹底な運用などを、外国企業の参入を阻む「非関税障壁」として厳しく批判した。これにより、日本は内政干渉とも言える具体的な制度改革を迫られることとなった。
合意内容と日本社会・経済への長期的影響
1990年(平成2年)6月、最終報告が取りまとめられ、日本側はアメリカの要求を大幅に受け入れる形で妥結した。日本政府は、10年間で総額430兆円にのぼる公共投資基本計画の策定を約束し、生活環境分野への投資拡大を余儀なくされた。また、大店法の運用緩和や独占禁止法の強化、系列取引の是正などについても具体的な改善策が盛り込まれた。
この協議の結果は、日本国内に劇的な変化をもたらした。大店法の緩和により、トイザらスに代表される外資系大型店舗や国内の大型ショッピングモールが各地に進出し、消費者は安価な商品や多様なサービスを享受できるようになった。その一方で、地方都市の「シャッター通り」化に代表される個人商店街の急速な衰退を招く一因ともなった。日米構造協議は、その後の橋本龍太郎内閣や小泉純一郎内閣へと引き継がれる、日本の「構造改革」(規制緩和・市場開放)路線の決定的な出発点として、日本戦後経済史における大きな転換点となったのである。