東西ドイツ統一
【概説】
1990年、第二次世界大戦後の冷戦体制下で分断されていたドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が、西側主導で一つの国家として統合された歴史的出来事。1989年のベルリンの壁崩壊を契機に急速に統一へのプロセスが進み、翌年10月に東ドイツが西ドイツに編入される形で実現した。米ソ対立を機軸とした戦後国際秩序の崩壊と、冷戦終結を決定づけた象徴的な事象である。
東西分断の固定化と「ベルリンの壁」
第二次世界大戦で敗戦国となったドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦の戦勝4か国によって分割占領された。冷戦の激化に伴い、1949年に米英仏の占領地域に資本主義陣営のドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連の占領地域に社会主義陣営のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、国家の分断が決定づけられた。
その後、西ドイツが「経済の奇跡」と呼ばれる目覚ましい復興を遂げたのに対し、東ドイツは計画経済の行き詰まりから経済格差が拡大した。東から西への労働力流出に危機感を抱いた東ドイツ政府は、1961年に首都を東西に分断する「ベルリンの壁」を構築した。これにより、ドイツの分断は物理的にもイデオロギー的にも固定化され、ヨーロッパにおける東西冷戦の最前線として長らく緊張状態が続くこととなった。
東欧革命とベルリンの壁崩壊
1980年代後半、ソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカ(改革)と新思考外交が展開されると、東ヨーロッパ諸国に対するソ連の統制が緩み、民主化の波(東欧革命)が押し寄せた。1989年夏には、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、これを経由して多数の東ドイツ市民が西ドイツへ脱出する事態が発生した。
東ドイツ国内でも、ホーネッカー政権の強権体制に対する民主化要求デモが各地で激化し、政権は退陣に追い込まれた。そして1989年11月9日、東ドイツ政府の渡航制限緩和に関する誤発表をきっかけに、興奮した市民が検問所に殺到し、ついにベルリンの壁が崩壊した。これは分断の象徴が打ち砕かれた瞬間であり、世界中に多大な衝撃を与え、時代の大きな転換点となった。
西ドイツ主導の統一プロセス
壁崩壊後、東西ドイツの統一機運は一気に高まった。西ドイツのコール首相は、いち早く「ドイツとヨーロッパの分断を克服するための10項目のプログラム」を発表し、統一への道筋を示した。1990年3月に東ドイツで行われた初の自由選挙では、早期統一を掲げる保守連合が圧勝し、統一への確固たる民意が示された。同年7月には、西ドイツの通貨である西ドイツ・マルクが東ドイツに導入され、経済・通貨・社会同盟が発効した。
国際的な調整としては、両ドイツと戦勝4か国(米英仏ソ)による「2プラス4」会議が開催された。最大の懸案であった統一ドイツのNATO(北大西洋条約機構)残留について、西ドイツによる対ソ経済支援などを条件にソ連が容認し、最終条約が調印された。これによりドイツは第二次世界大戦後初めて完全な主権を回復することとなった。
統一の実現と日本・世界への影響
1990年10月3日、東ドイツが西ドイツの基本法(憲法)の適用範囲に編入される「吸収統一」の形で、東西ドイツの統一が正式に実現した。これは、1989年12月のマルタ会談での冷戦終結宣言を不可逆的なものにし、第二次世界大戦後から続いたヨーロッパの分断構造(ヤルタ体制)に終止符を打つ歴史的快挙であった。
日本史の文脈(平成時代初頭)において、この劇的な冷戦構造の崩壊は、日本を取り巻く国際環境をも一変させた。東西対立を前提としたイデオロギー政治や安全保障体制の見直しが迫られるとともに、直後の湾岸戦争(1991年)などを経て、日本はPKO協力法(1992年)の制定など、新たな国際貢献のあり方を模索していくことになる。東西ドイツ統一は、平成という新しい時代が、激動のグローバル化と国際秩序の再編の中で幕を開けたことを象徴する出来事であったと言える。