タリバン政権
【概説】
1990年代後半からアフガニスタンを支配した、イスラーム極進主義の武装勢力による政権。国際テロ組織「アルカイダ」を庇護したことで、2001年のアメリカ同時多発テロ後にアメリカ軍をはじめとする有志連合の攻撃を受け、一度崩壊した。この政権を巡る動向とアメリカの対テロ戦争は、平成期の日本における安全保障政策の大転換と自衛隊の海外派遣拡大を促す契機となった。
タリバンの台頭とアフガニスタンの掌握
1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻とその撤退後、アフガニスタン国内は諸軍閥が割拠する激しい内戦状態に陥った。この混沌とした状況下で、パキスタンの難民キャンプにある宗教学校(マドラサ)の学生を中心として組織された武装勢力がタリバンである。タリバンは規律の確立と治安の回復を掲げ、内戦に疲弊した民衆の支持を得て急速に勢力を拡大。1996年には首都カブールを占領し、独自の政権(第一次政権)を樹立した。彼らは極端に厳格なイスラーム法(シャリーア)解釈を社会に適用し、女性の教育・就労の禁止、音楽やテレビなどの娯楽の禁止、さらにユネスコ世界遺産であるバーミヤン大仏の破壊などを行い、国際社会から激しい非難を浴びて孤立した。
アメリカ同時多発テロと政権の崩壊
タリバン政権は、反米・反西洋を掲げる国際テロ組織アルカイダとその指導者ウサマ・ビンラディンを国内に庇護し、テロリストの訓練キャンプを提供していた。2001年9月11日、アメリカ国内で同時多発テロ事件が発生すると、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権はビンラディンの引き渡しをタリバン政権に要求。タリバン側がこれを拒否したため、アメリカは「対テロ戦争」を宣言し、イギリスなどとともにアフガニスタンへの軍事攻撃(空爆)を開始した。現地反タリバン勢力である「北部同盟」の地上作戦とも連動し、同年末までにタリバン政権はカブールを追われ、一度崩壊へと追い込まれた。
平成日本への衝撃と安全保障政策の転換
タリバン政権の崩壊に至る一連の「対テロ戦争」は、平成の日本外交および安全保障政策に未曾有の決定的な影響を与えた。当時の小泉純一郎内閣は、アメリカによる武力行使を強く支持。湾岸戦争(1991年)時に「資金資金のみの貢献」と揶揄された反省から、人的貢献を含む迅速な支援体制の構築を模索した。その結果、従来の国連平和維持活動(PKO)の枠組みを超え、自衛隊による多国籍軍への後方支援を可能にするテロ対策特別措置法(テロ特措法)を同年10月に成立させた。これにより、海上自衛隊の艦船がインド洋に派遣され、米軍などの多国籍軍に対する補給活動(給油など)を実施した。これは、日本の安全保障政策が従来の専守防衛の枠組みから脱却し、同盟国アメリカと歩調を合わせたグローバルな軍事支援活動へと踏み出す歴史的な大転換点となった。