北部仏印進駐 (ほくぶふついんしんちゅう)
【概説】
日中戦争の長期化に伴い、重慶の蒋介石政権を支援する「援蒋ルート」を遮断すること、および南進政策の拠点確保を目的に、1940年9月に日本軍がフランス領インドシナの北部に進駐した事件。欧州でのフランスの敗北に乗じて行われ、日米関係悪化の決定的な契機となった。
日中戦争の膠着と「援蒋ルート」の遮断
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争は、日本側の予想に反して長期化し、泥沼の様相を呈していた。その背景には、蒋介石率いる国民政府が、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連などの外国から軍事物資の援助を受けていたことがあった。これらの物資輸送路は「援蒋ルート」と呼ばれ、なかでもフランス領インドシナ(仏印)のハノイから中国の昆明に至る鉄道ルートは、極めて重要な輸送網であった。
戦況を打開し、日中戦争を早期に終結させたい日本陸軍にとって、この「仏印ルート」を遮断することは焦眉の急であった。日本はフランス政府に対し輸送停止を繰り返し要求していたが、決定的な打撃を与えるには至っていなかった。
欧州情勢の激変と日本の「南進論」
1940年(昭和15年)6月、第二次世界大戦の欧州戦線において、ナチス・ドイツの電撃戦の前にフランスが降伏するという劇的な事態が発生した。フランスの敗北、そしてイギリスの苦境という「世界情勢の激変」を目の当たりにした日本国内では、「バスに乗り遅れるな」という世論が沸騰し、東南アジアの植民地資源(石油やゴムなど)の獲得を目指す「南進論」が一気に台頭した。
同年に発足した第2次近衛文麿内閣は、フランスの降伏によって本国との連携が弱まった仏印のヴィシー政権(ドイツの傀儡政権)に対し、軍事進駐を要求した。外相の松岡洋右は強硬な対外交渉を展開し、1940年9月、現地での西原・マルタン協定によって、日本軍の北部仏印への平和進駐が合意された。しかし、功を焦る現地陸軍(南支那方面軍)の一部が、協定成立直前に国境を越えて武力侵入を行うなど、日本軍の統制の乱れ(独断専行)が露呈する形での進駐となった。
米国の反発と太平洋戦争への道標
北部仏印への進駐により、日本は念願であった「仏印ルート」の遮断に成功し、中国南部の国民政府に対する軍事的圧力を強めることができた。しかし、この強引な現状変更は、アジア太平洋地域における権益を脅かされたと感じたアメリカ合衆国を激しく刺激することとなった。
アメリカ政府は即座に猛反発し、日本に対する制裁措置として、重要な軍事物資である航空用ガソリンや屑鉄(くずてつ)の対日輸出制限を決定した。この米国の対応に対し、日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟(日独伊三国同盟)を締結することで対抗し、日米の対立は修復不可能な段階へと進む。さらに翌1941年の南部仏印進駐へと突き進んだ日本は、アメリカによる「対日石油全面禁輸」という致命的な制裁を招き、最終的に太平洋戦争(日米開戦)の破局へと導かれていくことになった。