品川台場(お台場)

ペリー来航後、江戸湾の防備を固めるために幕府が品川沖に建設させた海上砲台を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

品川台場(お台場) (しながわだいば(おだいば)

1853〜1854年築造

【概説】
1853年のペリー来航を受け、江戸の防備を強化するために幕府が品川沖に建設した海上砲台。伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が設計・指揮を担当し、西洋式の軍事技術を駆使して突貫工事で築造された。今日「お台場」と呼ばれる臨海地区の歴史的ルーツである。

ペリー来航と江戸湾防備の緊迫

1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に来航した。この事態は、約200年間にわたり「鎖国」体制を維持してきた徳川幕府に多大な衝撃を与えた。翌年の再来航を予告して去ったペリーに対し、老中首座の阿部正弘は、朝廷や諸大名に外交方針を諮問すると同時に、江戸の防衛体制を急ピッチで再構築する必要に迫られた。特に、ペリー艦隊が江戸湾の深部まで侵入し、将軍のお膝元である江戸を直接威嚇する可能性(海上からの侵攻)が極めて現実的な脅威として認識された。この危機感から、品川沖に迎撃のための強固な人工島(砲台)を建設する計画が急速に具体化することとなった。

江川太郎左衛門の建議と西洋式砲台の建設

この大規模な海上砲台建設の指揮を執ったのが、伊豆韮山代官であり、西洋砲術の先駆者でもあった江川太郎左衛門(英龍)である。江川は、従前から沿岸防備の重要性を唱えており、幕府の命を受けて品川沖に11基の台場を建設する計画を立案した。実際の建設作業は急ピッチで進められた。土砂は高輪や御殿山などから削り取られ、数千人の労働者を動員して海中に埋め立てられた。完成した台場は、西洋の要塞技術である「稜堡式(りょうほうしき)」を部分的に取り入れた五角形や四角形の形状をしており、周囲を石垣で囲み、内部には大砲や弾薬庫、兵舎などが配備された。江川は鋳造技術の近代化にも着手しており、韮山に反射炉(韮山反射炉)を建設して大砲の自給体制を整えようとした。しかし、国家財政の逼迫や、1854(安政元)年の日米和親条約締結による緊張緩和により、最終的に完成したのは6基(第1〜第3、第5、第6、および未完成の御殿山下台場)に留まり、実際に実戦で大砲が火を噴くことはなかった。

近代化遺産としての歴史的意義

品川台場は、幕末の対外緊張が生み出した最大の近代化遺産(軍事遺跡)の一つである。明治維新後、陸軍省や海軍省の管轄を経て、大正時代には東京市に払い下げられ、公園として整備された。現代において、埋め立てが進んだ東京臨海副都心エリアは「お台場」という地名で広く親しまれているが、そのルーツはまさにこの幕末の海上砲台にある。現在でも、国指定史跡として第三台場(台場公園として開放)と第六台場(立入禁止、鳥獣の生息地)が品川沖にその姿を留めており、激動の幕末期における日本の防衛政策の試行錯誤と、急速な西洋技術の受容の跡を今に伝えている。

幕末維新のリアル: 変革の時代を読み解く7章

歴史の転換点に挑んだ先人たちの思考と行動から、激動の時代を生き抜くための本質を学び取るための必読書。

自分の頭で考える 世界をもっとおもしろくする方法

常識にとらわれず物事の本質を鋭く見抜く力を養い、閉塞感のある日常を打破して世界を面白く変えるための思考法。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 江戸時代まで日本で使われていた、月の満ち欠けを基準とする暦で、1872年に太陽暦(グレゴリオ暦)へ改暦されて廃止されたものは何か?
Q. 足利義満の時代に栄えた、公家の伝統的な美意識と武家の力強さが融合した華麗な文化を何というか?
Q. 鎌倉時代に誕生し、難解な学問や厳しい修行よりも、念仏や題目など誰もが実践できる方法論(易行・選択)によって救済を説いた宗派の総称は何か?