太陽太陰暦(旧暦) (たいようたいいんれき)
【概説】
月の満ち欠けの周期を基準にしつつ、太陽の運行に合わせて閏月を挿入することで季節のズレを調整した暦法。日本では飛鳥時代の導入から1872年(明治5年)の太陽暦採用まで、千年以上におよび社会の基準として用いられた。
日本の生活・農耕を支えた太陰太陽暦の仕組みと歴史
太陽太陰暦は、月の満ち欠け(朔望)の周期(約29.5日)を基準とした12ヶ月(約354日)を基本とする。これでは実際の地球の公転周期(約365.24日)と毎年約11日のズレが生じるため、約3年に1度、閏月(うるうづき)を挿入して1年を13ヶ月とすることで、季節との乖離を防ぐ仕組みを持っていた。
しかし、これだけでは月日と農耕に適した季節との間に数週間のズレが生じるため、天体の運行に基づき1年を24等分した二十四節気(立春、春分、夏至など)を暦に導入し、農業指標として活用した。日本においては、604年に百済の僧・観勒が伝えた元嘉暦をはじめ、長らく中国の暦が導入・改訂され使用されていたが、江戸時代の1684年に幕府天文方の渋川春海によって、日本独自の天体観測に基づいた最初の和暦である「貞享暦」が作成された。その後、宝暦暦、寛政暦を経て、1844年には天保暦が導入され、これが日本で最後に使われた太陽太陰暦(いわゆる旧暦)となった。
明治五年の急進的な改暦とその財政的背景
千年以上におよび日本人の生活や年中行事の基準であった太陽太陰暦は、1872年(明治5年)11月9日に発せられた「太政官布告第337号」によって突如廃止され、西欧と同じ太陽暦(グレゴリオ暦)へ移行することとなった。この改暦は極めて急進的であり、明治5年12月3日を「明治6年(1873年)1月1日」とするものであったため、明治5年の12月はわずか2日間で終了し、社会に大きな混乱をもたらした。
政府がこれほどまでに急な改暦を断行した最大の理由は、明治新政府の極めて深刻な財政難にあった。翌明治6年は旧暦のままでいくと「閏6月」が生じる13ヶ月の年であった。当時、官吏の給与制度を月給制へ移行したばかりの新政府にとって、13ヶ月分の俸給を支払うことは財政的に大きな負担であった。そこで、太陽暦を導入して1年を12ヶ月に固定し、さらに明治5年12月の2日間を切り捨てることで、実質的に1ヶ月半分の俸給支払いを免れるという財政上の帳尻合わせが行われたのである。
同時に、不平等条約の改正を目指す日本にとって、暦の上でも欧米列強と同調することは「文明国」としての体裁を整えるための重要な一歩であり、文明開化を象徴する国策でもあった。この改暦を契機に、年中行事や時間の概念が西欧化され、日本社会の近代化が日常生活のレベルから急速に推し進められることとなった。