援蒋ルート (えんしょうるーと)
【概説】
日中戦争期に、アメリカ、イギリス、ソ連、フランスなどの連合国側が、重慶に遷都した中国の蒋介石政権(国民政府)に対して軍事援助物資を補給するために用いた補給路。日本の占領地域を避けて、周囲の第三国から中国内陸部へと至る複数の輸送ルートが形成された。このルートの存在は、日本軍による対中戦争の早期終結を困難にし、日本の南方進出および太平洋戦争突入を誘発する契機となった。
日中戦争の長期化と4つの補給路
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争において、日本軍は圧倒的な軍事力で中国の沿岸部や主要都市、交通要地を次々と占領した。これに対し、蒋介石率いる国民政府は首都を南京から武漢、さらに奥地の重慶へと移し、徹底抗戦の構えをとった。この重慶政権を維持させ、日本軍の抗戦を支えたのが、外部から流入する軍事物資、すなわち援蒋ルートであった。
代表的なルートには、以下の4つが存在した。
- 西北ルート:ソ連からシンキアン(新疆)や甘粛を経由して重慶に至る陸路。
- 仏印ルート:フランス領インドシナ(ベトナム)のハノイから昆明へと至る鉄道・道路網。
- ビルマルート:イギリス領ビルマのラングーン(現ヤンゴン)から、険しい山岳地帯を越えて昆明に至る「ビルマ公路」。
- 香港ルート:イギリス領香港から中国南部に物資を揚陸し、内陸部へ送るルート。
これらのルートを通じて、大量の武器、弾薬、ガソリン、医療品などが重慶に届けられ、日本軍の「速戦即決」の目論見は崩れ去り、戦局は泥沼の長期戦へと突入していった。
日本の南進政策と対米英関係の破綻
日本にとって、軍事的に重慶政権を屈服させるためには、援蒋ルートの遮断が不可欠の課題となった。1940年(昭和15年)、欧州戦線におけるドイツの電撃戦によってフランスが降伏すると、日本はその隙を突いて北部仏印進駐を強行し、仏印ルートを遮断した。さらに同年、イギリスに対して圧力をかけ、ビルマルートを一時的に閉鎖させることにも成功した。
しかし、こうした日本の動きは、東南アジアに植民地を持つ英米仏などの連合国を強く刺激することとなった。イギリスはまもなくビルマルートを再開し、アメリカは蒋介石政権への財政・軍事援助を本格化させた。さらに日本が1941年(昭和16年)に南部仏印進駐を行うと、アメリカは激怒して「対日石油輸出の全面禁止」などの厳しい経済制裁に踏み切った。これにより日米関係は決定的に悪化し、日本は自給自足の資源地帯を求めて太平洋戦争(大東亜戦争)へと突き進むこととなった。
太平洋戦争下でのルート遮断と「ハンプ」空輸
太平洋戦争の勃発後、日本軍は破竹の勢いで東南アジアに進出し、香港やビルマを占領した。これにより、従来の陸上における援蒋ルートは完全に遮断され、重慶政権は窮地に陥るかに見えた。
だが、アメリカを中心とする連合国は、新たにインドのアッサム地方からヒマラヤ山脈の険しい峰々を飛び越えて雲南省の昆明へと至る、極めて危険な空輸ルート(通称ハンプ(駝峰)ルート)を開拓した。輸送機を用いたこの決死の空輸作戦により、年間数十万トンにのぼる物資が重慶政府に供給され続けた。さらに連合国軍はビルマ奪還作戦を展開し、インドからビルマ北部を経由して中国へ至る新たな陸路(レド公路)を建設した。
結果として、日本軍は最後まで援蒋ルートを完全に断つことができず、中国戦線に膨大な陸軍兵力を縛り付けられたまま敗戦を迎えることとなった。援蒋ルートは、連合国側の「中国を戦争に留まらせ、日本軍の戦力を分散・消耗させる」という高度な世界戦略の一環として、大戦の趨勢に極めて大きな影響を与えたのである。