伊治呰麻呂の乱 (これはりのあざまろのらん)
【概説】
780年(宝亀11年)に陸奥国で発生した、帰順した蝦夷(えみし)の豪族による武装蜂起。東北における朝廷支配の拠点であった多賀城を焼き討ちし、以後約30年以上にわたる泥沼の「三十八年戦争」を引き起こす契機となった事件である。
反乱の背景と伊治呰麻呂の屈折
奈良時代、律令国家(朝廷)は東北地方(陸奥国・出羽国)への支配権拡大を進め、城柵と呼ばれる軍事・行政拠点を次々と築いていた。その過程で、朝廷の支配下に入った東北の先住民は「俘囚(ふしゅう)」などと呼ばれ、内国化が進められていった。伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)もそうした帰順した蝦夷(「己等群(これらぐん)」と呼ばれる)の有力な首長の一人であり、朝廷から外従五位下・上治郡領という官位を与えられ、郡司として対蝦夷政策の末端を担わされていた。
しかし、朝廷の役人たちの間には、帰順した蝦夷を「夷狄(野蛮人)」として見下す根深い蔑視観念が存在していた。特に、陸奥国牡鹿郡領の道嶋大楯(みちしまのおおたて)らは、呰麻呂がかつて夷狄であったことを理由に日常的に侮辱し、これに対して呰麻呂は深い恨みを抱くようになった。この個人的な怨恨と、朝廷による強硬な同化政策や軍事的圧迫に対する蝦夷社会全体の不満が結合し、大規模な反乱へと発展することとなった。
多賀城襲撃と朝廷への衝撃
780年(宝亀11年)3月、呰麻呂は伊治城(現在の宮城県栗原市)において、融和政策をとっていた陸奥守兼按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)と、宿敵であった道嶋大楯を誘い出して殺害した。これを皮切りに呰麻呂率いる反乱軍は一挙に南下し、陸奥国の国府であり、軍事・政治の最高拠点であった多賀城(宮城県多賀城市)を襲撃した。
当時、多賀城を守る兵力は出払っており防備は手薄であった。反乱軍は城内に侵入して略奪を働き、城郭や官舎に放火してことごとく焼き払った。東北支配の象徴であり、強固な防衛力を誇るはずの多賀城が一時的にせよ陥落・消失したことは、平城京の朝廷に巨大な衝撃を与えた。時の光仁天皇は事態を重く見て、直ちに大規模な征討軍を派遣することを決定した。
「三十八年戦争」への突入と歴史的意義
伊治呰麻呂の乱そのものは、首謀者である呰麻呂がその後に消息を絶った(あるいは敗死した)こと、また朝廷が軍を派遣して多賀城を再建したことなどにより収束へ向かった。しかし、この反乱は決して一過性の事件では終わらなかった。呰麻呂の蜂起に呼応した東北各地の蝦夷は、以後強固な結束のもとで朝廷への組織的抵抗を本格化させることとなった。これが、のちにアテルイ(阿娖・阿弖流為)らの指導者を生み出し、長きにわたる「三十八年戦争」へと突入していく契機となった。
この戦争は、続く桓武天皇の時代における「造作(平安京遷都)」と並ぶ国家の二大事業(「軍事(蝦夷征討)」)として引き継がれる。莫大な軍事費と兵力の動員は律令国家の財政を著しく圧迫し、最終的に坂上田村麻呂が征夷大将軍として胆沢城を築き、アテルイを降伏させるまで、朝廷の国内政治や対外政策を大きく縛り続けることとなった。その意味で、伊治呰麻呂の乱は、古代東北史および律令国家の転換点となった極めて重要な事件である。