弘仁格式

嵯峨天皇の時代に編纂された、大宝律令以降に出された格と式を初めて体系的に分類・編集した法典は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
三代格式(Wikipedia)

弘仁格式 (こうにんきゃくしき)

820年

【概説】
平安時代初期の嵯峨天皇の時代に編纂された、日本最初の格式。大宝律令や養老律令の制定以降に、社会の変化に対応して発布された個々の追加法令(格)や施行細則(式)を初めて体系的に分類・整理した法典である。のちの「三代格式」の嚆矢(こうし)となった。

律令体制の動揺と「格式」編纂の背景

8世紀初頭に制定された大宝律令および養老律令は、中国の唐風制度を模倣したものであったが、日本の社会実態との間には当初から乖離があった。さらに平安時代初期にかけて社会や経済が変化するにつれ、律令本来の規定では対応できない事態が急増した。これに対し朝廷は、臨時の法令である「格(きゃく)」や、その実施細則・行政手続きを定めた「式(しき)」をその都度発布することで急場をしのいできた。

しかし、律令制定から1世紀以上が経過すると、これら無数に発布された格や式の中には、互いに矛盾するものや実態に合わなくなったものが多く存在し、実務官僚の判断を混乱させる原因となった。そこで、行政の効率化と天皇による親政体制の強化を目指し、散在する法令を統一的に整理・統合する事業が必要となったのである。

藤原冬嗣らの主導と『弘仁格式』の構成

こうした中、薬子の変(810年)を経て王権の再確立を図る嵯峨天皇の命により、法典の編纂事業が開始された。この事業を実務面で主導したのが、天皇の側近として設置された蔵人頭から台頭し、藤原北家の繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らである。

冬嗣らは、大宝律令が制定された701年以降に発布された膨大な法令の中から、現在も有効なものを選び抜いて官庁別に分類し、弘仁11年(820年)に『弘仁格式』として撰上した(施行は830年)。その構成は「格」10巻、「式」40巻に及んだ。この『弘仁格式』の完成により、それまでの法令の真偽や優劣をめぐる混乱は終息し、中央および地方の行政実務は飛躍的に明瞭化された。

「格式政治」の成立とその歴史的意義

『弘仁格式』の編纂は、その後の日本における法運用に決定的な方向性を与えた。朝廷は、基本法である「律」や「令」そのものを全面的に改正する困難を避け、社会の変化には「格式」の追加・改定によって対処する方針を確立した。これが、歴史上いわゆる「格式政治」と呼ばれる柔軟な統治形態である。

この手法はのちの朝廷にも受け継がれ、清和天皇の時代の『貞観格式』、醍醐天皇の時代の『延喜格式』へと続いた。これらは合わせて「三代格式」(さんだいきゃくしき)と称される。嵯峨天皇の時代には、検非違使や蔵人所といった「令外の官(りょうげのかん)」の設置も相次いでおり、『弘仁格式』の編纂は、日本の国情に合わせた律令体制の再編(変容)を象徴する重要な出来事であったといえる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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