玉砕 (ぎょくさい)
【概説】
太平洋戦争中、弾薬や食料が尽き果てた極限状態において、降伏せずに全滅するまで戦い抜いた日本軍部隊の最期を指す言葉。大本営やマスメディアによって「名誉ある死」として美化され、国民の戦意高揚や戦争継続の道具として利用された。敗北や全滅という客観的事実を精神主義によって覆い隠そうとした、当時の日本軍の特異な思想を象徴する用語である。
アッツ島の戦いと「玉砕」の初出
「玉砕」という言葉は、古代中国の歴史書『北斉書』にある「大丈夫(大男児)寧ろ玉砕するとも、瓦全するに能わず(立派な男子は瓦のようにつまらない存在として生き延びるより、美しい玉のように砕け散るべきだ)」という一節に由来する。本来は漢詩や古典の文学表現であったが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年5月、アリューシャン列島のアッツ島の戦いにおいて守備隊が全滅した際、大本営発表で初めて公式に使用された。
当時、劣勢に立たされていた日本軍は、部隊の「全滅」や「敗北」という不都合な事実が国民に与える動揺を避けるため、この言葉を用いて「全員が天皇への忠誠を尽くして潔く殉職した」という英雄的な物語へとすり替えた。以後、タラワ、サイパン、硫黄島など、太平洋諸島での守備隊全滅のたびに「玉砕」の表現が繰り返し用いられることとなった。
戦陣訓の呪縛と悲劇の連鎖
部隊が「玉砕」を選択せざるを得なかった背景には、1941(昭和16)年に陸軍大臣の東条英機が示した「戦陣訓」の一節、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」に代表される極端な精神主義があった。当時の日本軍では、敵の捕虜となることは最大の恥とされ、降伏や退却は事実上許されていなかった。このため、合理的な作戦行動としての撤退や降伏という選択肢が排除され、必然的に全滅へと追い込まれていったのである。
さらに、この「玉砕」の思想は軍人だけでなく、戦場となった地域の民間人にも強要された。サイパン島や沖縄戦においては、軍の誘導や強制、あるいは捕虜となる恐怖から、多くの一般市民が自ら命を絶つ「集団自決」(強制集団死)という悲劇を引き起こすこととなった。戦争末期には「一億玉砕」のスローガンのもと、本土決戦に向けて国民全体が死を覚悟して戦うことが義務づけられるに至った。