アッツ島の戦い
【概説】
太平洋戦争中の1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島において、日本軍守備隊が圧倒的なアメリカ軍を前に降伏を拒んで全滅した戦闘。大本営が日本軍の全滅を初めて「玉砕」という美化された表現を用いて公式発表したことで知られ、その後の戦争指導や国民の精神動員に決定的な影響を与えた事件。
アッツ島をめぐる攻防と孤立
1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦の陽動作戦、およびアメリカ側による北方からの日本本土空襲を阻止するための防衛線構築を目的として、アリューシャン列島西端のアッツ島とキスカ島を占領した。しかし、同年の後半から南太平洋のガダルカナル島をめぐる激戦に軍事資源が集中したことで、北方戦線は事実上放置され、補給や増援が極めて困難な孤立状態に陥った。
1943年5月12日、アメリカ軍はアッツ島奪還を目指して上陸作戦を開始した。山崎保代(やまざきやすよ)陸軍大佐が率いる日本軍守備隊約2,630名に対し、アメリカ軍は最新兵器と圧倒的な物量を誇る約11,000名の兵力を投入した。制海権と制空権を完全に掌握された日本軍は、極寒と濃霧に阻まれた過酷な環境下で悲惨な防衛戦を余儀なくされた。
「玉砕」の言説化とその歴史的影響
物資と弾薬が底を突いた日本軍守備隊は、1943年5月29日夜、負傷者を自決させた上で、生存者による最後の突撃(バンザイ突撃)を敢行し、事実上全滅した。大本営は同月31日、この全滅を「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の倫理に則った名誉ある殉国として捉え、「玉砕(ぎょくさい)」という言葉を用いて公式発表した。これが日本軍における最初の「玉砕」の適用事例である。
戦死や自決を「美しく砕け散る」ものとして美化したこの言説は、軍事的敗北を国民に隠蔽し、むしろ戦意を昂揚させるための強力なプロパガンダとして機能した。アッツ島の戦い以降、サイパン島、硫黄島、沖縄戦などにおける守備隊の全滅に対しても「玉砕」の言葉が次々と適用され、最終的には国民全体を本土決戦へ駆り立てる「一億玉砕」のスローガンへと繋がっていくことになった。