労働組合法
【概説】
1945(昭和20)年12月に制定され、労働者の団結権、団体交渉権、争議権のいわゆる「労働三権」を初めて法的に保障した法律。後に制定される労働関係調整法、労働基準法とともに「労働三法」を構成し、戦後日本の労働運動と労使関係の近代化に向けた強固な基盤を確立した。
GHQの民主化政策と制定の背景
第二次世界大戦で敗北した日本に対し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は非軍事化と民主化を徹底する政策を推進した。1945年10月、マッカーサー最高司令官は幣原喜重郎内閣に対し「五大改革指令」を提示し、その第一項として「労働組合の結成奨励」を強く要求した。戦前の日本では、治安警察法や治安維持法などによって労働運動が厳しく弾圧されており、労働者の権利は著しく制限されていた。GHQは、労働者の権利を保障し労働組合を育成することこそが、日本経済の民主化と軍国主義の復活を防ぐための不可欠な要素であると位置づけたのである。
この指令を受けた日本政府は、直ちに労働法制の整備に着手した。その結果、わずか2ヶ月後の1945年12月に労働組合法が成立し、翌1946年3月に施行された。これは、後に制定される日本国憲法(第28条における勤労者の団結権等の保障)に先駆けて、戦後日本の労働運動の幕開けを告げる画期的な立法であった。
労働三権の保障と基本内容
労働組合法は、労働者が使用者と対等の立場で交渉するための強力な法的武器を提供した。具体的には、労働者が労働組合を結成する「団結権」、組合が使用者と労働条件などについて交渉する「団体交渉権」、そして交渉がまとまらない場合にストライキなどの争議行為を行う「争議権(団体行動権)」のいわゆる「労働三権」を保障した。
さらに、使用者による不当労働行為(組合員であることを理由とした解雇などの不利益取り扱いや、組合運営への支配・介入など)を明確に禁止し、正当な争議行為については刑事免責および民事免責(損害賠償請求を受けないこと)が与えられた。また、労働争議のあっせん・調停や不当労働行為の審査を行う独立行政委員会として、労・使・公益の三者構成による労働委員会(中央および地方)が設置された点も極めて重要な特徴である。
労働運動の急激な高揚と占領政策の転換
本法の制定により、抑圧から解放された労働運動は空前の高揚期を迎えた。各地で次々と労働組合が結成され、インフレや深刻な食糧難に苦しむ労働者たちは、生活防衛を求めて生産管理闘争など激しい争議を展開した。全国規模のナショナル・センターとして産別会議や総同盟が結成されるなど、労働組合の組織率は急激に上昇した。
しかし、運動の過激化はGHQの警戒を招くことになる。1947年2月に予定されていた二・一ゼネストに対し、マッカーサーが直前に中止命令を下したことは重大な転換点となった。冷戦の激化を背景に、GHQの占領政策は日本の「民主化」から「経済復興と反共の防波堤化」へと転換(いわゆる逆コース)し、労働運動に対する姿勢も保護・育成から統制・制限へと変化していくこととなる。
法改正と「労働三法」体制の確立
占領政策の転換を受け、労働組合法は1949(昭和24)年に全面的な改正が行われた。この改正では、労働組合の自主性と民主的運営を強化する名目の下、組合の資格要件が厳格化され、使用者からの経費援助の禁止規定が設けられた。また、現在に続く不当労働行為制度がより明確に整備されたのもこの時である。
労働法制の整備は本法だけにとどまらず、1946年には労働争議の予防と平和的解決を目的とする労働関係調整法が、1947年には労働条件の最低基準を定めた労働基準法が相次いで制定された。これら三つの法律を合わせて「労働三法」と呼ぶ。労働組合法は、これら労働保護法制の中核として、戦後日本における労使関係の民主化と労働者の地位向上を推進する上で、歴史的に極めて大きな役割を果たしたのである。