復興金融金庫
【概説】
太平洋戦争後の日本において、経済復興に向けた「傾斜生産方式」を資金面から支えるために設立された政府系金融機関。石炭や鉄鋼などの基幹産業に対して巨額の融資を行い生産復興に貢献したが、その資金調達手法が激しいインフレーション(復金インフレ)を招く原因ともなった。
傾斜生産方式と復興金融金庫の設立
敗戦直後の日本経済は、激しい物資不足とインフレーションに直面していた。この窮地を脱するため、第1次吉田茂内閣は経済学者の有沢広巳らの提案を受け、1946年末に傾斜生産方式を採用した。これは、限られた資源(特に石炭と鉄鋼)を特定の重要産業に重点的に投入し、その増産効果を他の産業へと波及させる経済再建策であった。
しかし、当時の民間金融機関には、戦争によって大打撃を受けた基幹産業へ巨額の長期資金を融資する余力はなかった。そこで、政府が直接資金を供給するための政策金融機関として、1947年1月に復興金融金庫(通称「復金」)が設立された。復金は、石炭、鉄鋼、電力、肥料、海運といった国家の基幹産業に対して、事実上の補助金とも言える低利・長期の融資を次々と実行し、日本経済の生産回復を強力に後押しした。
「復金インフレ」の発生と構造的課題
復興金融金庫による融資は基幹産業の生産力を引き上げたものの、その資金調達方法に重大な問題があった。復金が融資の原資としたのは、自ら発行する「復興金融債券(復金債)」であったが、その大半を引き受けたのは日本銀行であった。これは実質的に、日本銀行が紙幣(日本銀行券)を増発して政府の融資資金を賄っていることと同義であり、通貨供給量が急速に拡大した。
この結果、市場に大量の貨幣が流れ込み、ただでさえ物資が不足していた日本国内で、物価が爆発的に上昇する復金インフレが引き起こされた。国民生活は急激な物価高騰によって窮乏し、復金の融資姿勢に対する批判も高まった。さらに、融資の配分をめぐって政界と業界の癒着が生じ、1948年には昭和電工への融資を巡る大規模な汚職事件(昭和電工事件)が発生し、芦田均内閣が総辞職に追い込まれるなど、政治的な大混乱も招いた。
ドッジ・ラインによる終焉と歴史的意義
復金インフレによる経済の混乱を収拾するため、1949年に占領軍(GHQ)の要請により連合国軍最高司令官総司令部経済顧問のジョセフ・ドッジが来日し、強力な緊縮財政政策であるドッジ・ラインを断行した。ドッジ・ラインの基本方針は、国家財政の健全化とインフレの収束であり、その一カ条として復興金融金庫の新規融資は直ちに停止された。
役割を終えた復興金融金庫は、1952年に廃止され、その債権と業務は新たに設立された日本開発銀行(現在の日本政策投資銀行の前身)へと引き継がれた。復興金融金庫は、短期間で急激なインフレを招くという大きな副作用を生じさせたものの、崩壊状態にあった日本の戦後経済を再起動させ、その後の高度経済成長へとつなげるための産業基盤を形成したという点で、歴史的に極めて重要な役割を果たしたと言える。