日本労農党

高校日本史的重要度

【参考リンク】
日本労農党(Wikipedia)

日本労農党 (にほんろうのうとう)

1926〜1928年

【概説】
1926(大正15)年12月に、労働農民党の分裂に伴って結成された無産政党麻生久や三輪寿壮らを指導者とし、右派の社会民衆党と左派の労働農民党との中間に位置する「中間派(中道左派)」として活動を展開した。

労働農民党の分裂と「中間派」の結成

1925年の普通選挙法制定に前後して、日本における合法的な社会主義政党(無産政党)の結成運動が本格化した。1926年3月、最初の単一無産政党として労働農民党(労農党)が結成されたが、同党は共産主義系(日本共産党再建派)の活動家や団体を受け入れるか否かをめぐって、激しい対立が生じることとなった。右派の指導者たちは共産分子の排除を求めて脱退し、同年12月に社会民衆党を結成した。これに対し、労働者農民運動の統一を重視し、左右の分裂を回避しようとした麻生久三輪寿壮らは、党の左傾化にも反発して労農党を離脱。同月に「中間派」を標榜する日本労農党を結成した。これにより、日本の無産政党は右派(社会民衆党)、中間派(日本労農党)、左派(労働農民党)に三分されることとなった。

無産政党の再編と日本労農党の歴史的意義

日本労農党は、日労系労働組合の全国労働組合同盟(全同)などを支持基盤とし、反資本主義・反共産主義を掲げて活動した。1928(昭和3)年2月の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)においては、1名の当選者(河上丈太郎)を出している。しかし、無産政党の乱立は選挙において不利に働くことが明白であり、同年の三・一五事件による労働農民党の結社禁止処分などを経て、無産政党の再編運動が加速した。同年12月、日本労農党は他の無産政党の一部と合同して日本大衆党を結成し、わずか2年余りでその独自の歴史を閉じた。しかし、日本労農党に源流を持つ「中間派」の系譜は、昭和戦前期における国家社会主義への接近や、戦後の日本社会党右派の結成へとつながる重要な潮流を形成した。

最終更新:
2026年7月27日 @ 16:43

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