浅沼稲次郎

戦前の日本労農党などに参加して無産運動を牽引し、戦後に日本社会党委員長となったが演説中に暗殺された政治家は誰か?
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【参考リンク】
浅沼稲次郎(Wikipedia)

浅沼稲次郎 (あさぬまいねじろう)

1898年〜1960年

【概説】
大正から昭和期にかけて日本の社会主義運動を指導した政治家。戦前の無産政党運動から戦後の日本社会党結成に参加し、書記長や委員長を歴任したが、1960年に右翼少年に刺殺された。

「人間機関車」と称された大衆政治活動

浅沼稲次郎は早稲田大学在学中に「建設者同盟」に加わり、社会主義運動の道に進んだ。大正デモクラシー期には日本労農党など数々の無産政党の結成に参画し、労働運動や小作争議の組織化に奔走した。戦後は日本社会党の結成に加わり、党の分裂と再統一(1955年)という激動期において、書記長や委員長として党を牽引した。大柄な体躯と独特のハスキーボイスによる熱狂的な演説、そして全国を休むことなくオルグに回る献身的な姿勢から「人間機関車」の異名で広く国民に親しまれた。1959年の訪中時には「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と言明し、国内外で大きな議論を巻き起こしたことでも知られる。

浅沼刺殺事件とその歴史的影響

1960年は、日米安全保障条約(新安保条約)の改定をめぐり、革新陣営と保守政権が激しく激突した安保闘争の年であった。その興奮が冷めやらぬ同年10月12日、東京の日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社の3党首立会演説会において、演説中の浅沼は突如壇上に駆け上がった17歳の右翼少年・山口二矢によって刺殺された。この悲劇的な瞬間は、NHKのテレビ中継などを通じて全国に生放送(および録画放送)され、日本社会に計り知れない衝撃を与えた。この事件は、戦後民主主義における言論の自由への重大な挑戦として捉えられ、その後の過激な政治暴力に対する取り締まり強化や、議会制民主主義のあり方を問い直す契機となった。

浅沼稲次郎―その人・その生涯 (1961年)

激動の昭和を駆け抜けた政治家の素顔と、信念に満ちた生涯の軌跡を紐解く貴重な記録。

浅沼稲次郎―私の履歴書ほか (人間の記録)

庶民への深い愛情と情熱を胸に抱き続けた、人間味あふれる歩みを辿る一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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