労働農民党
【概説】
大正デモクラシー期に結成された、大正から昭和初期にかけての日本における左派の無産政党。普通選挙法の制定を受けて労働者や農民の政治的権益を代表する政党として誕生したが、内部での左右対立を経て左傾化し、三・一五事件直後に政府によって強制解散させられた。
無産政党の誕生と左右の分裂
1925(大正14)年、加藤高明内閣のもとで普通選挙法が制定されると、それまで選挙権を持たなかった労働者や農民を基盤とする「無産政党」の結成運動が本格化した。同年12月、日本最初の単一無産政党として「農民労働党」が結成されたが、治安維持法などを背景とする政府によってわずか2時間後に禁止処分を受けた。
翌1926(大正15)年3月、当局の弾圧を避けるために穏健な綱領を掲げて再建されたのが労働農民党(労農党)である。当初は右派の社会民主主義者から左派の共産主義者までを網羅する広範な勢力の結集を目指したが、党内の主導権や非合法の日本共産党(第一次・第二次)との関係をめぐって激しい対立が発生した。その結果、右派や中間派が相次いで離脱してそれぞれ新党(社会民衆党や日本労農党など)を結成し、労働農民党は実質的に左派(共産党系)が主導する政党へと純化していった。
大山郁夫の指導と第1回普通選挙への挑戦
右派が離脱した後の労働農民党は、元早稲田大学教授で知識人として名高かった大山郁夫を中央執行委員長に迎え、組織の再建を図った。大山の指導のもと、同党は地主・資本家主導の政治に対抗し、小作料の引き下げや労働条件の改善など、大衆の現実的な要求を掲げて地方に支持を広げた。
1928(昭和3)年2月、日本で最初となる普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が実施されると、労働農民党は積極的な選挙戦を展開した。非合法下の日本共産党員も同党の候補者や支援活動に深く関与し、京都から立候補した山本宣治ら4議席を擁立・獲得する成果を上げた。しかし、この公然たる左翼勢力の進出は、当時の田中義一内閣をはじめとする支配層に強い危機感を与えることとなった。
治安維持法下の弾圧と強制解散
初の普通選挙から間もない1928年3月15日、田中義一内閣は全国の共産党員およびその同調者の一斉検挙に踏み切った(三・一五事件)。この弾圧の矛先は、共産党の合法的影響下にあるとみなされた労働農民党にも向けられた。政府は同党が共産党の「隠れみの」として機能していると主張し、同年4月10日、治安警察法を適用して労働農民党、日本労働組合評議会(全評)、全日本無産青年同盟の3団体に対して解散命令を下した。
労働農民党の解散は、大正デモクラシー期に開花した合法的左翼政治運動の大きな挫折を意味した。その後、大山郁夫らは「新労農党」の再建を試みるなど抵抗を続けたが、政府による治安維持法の厳罰化(最高刑を死刑に改定)や相次ぐ弾圧の強化により、無産政党の左派運動は急速に退潮し、昭和戦前期のファシズムの台頭を許す一因となった。