連ソ・容共・扶助工農

1924年、孫文が中国国民党の改組にあたって打ち出した、「ソ連と結び、共産党を容認し、労働者・農民を援助する」という3つの方針を何というか?
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【参考リンク】
容共(Wikipedia)

連ソ・容共・扶助工農 (れんそ・ようきょう・ふじょこうのう)

1924年

【概説】
中国国民党の孫文が提唱した、ソ連との提携、共産党の容認、労働者・農民の支援を柱とする三大方針。第一次国共合作を成立させ、中国国民革命を推進する政治的基盤となった指導理念。日本の対中国政策や、国内の社会運動に対する思想的統制の動向にも強い警戒感をもって受け止められた。

第一次国共合作を支えた大衆動員の指導理念

辛亥革命後も軍閥の割拠や列強の介入に苦しんでいた孫文は、欧米に代わる新たな支援者として、1917年にロシア革命を成功させたソ連(コミンテルン)に接近した。これにより、1924年の中国国民党第1回全国代表大会において、指導理念である「三民主義」を反帝国主義・反封建主義の観点から再定義し、その具体的な実践策として連ソ・容共・扶助工農の三大方針が正式に確立された。

この方針のもと、国民党員個人の身分のまま共産党員が国民党に加入することが認められ、第一次国共合作が成立した。また、「扶助工農」の掲示により、それまでエリート中心であった革命運動に労働者や農民といった広範な民衆組織が組み込まれ、国民革命運動は一気に大衆的な広がりを見せることとなった。

日本への影響と対中警戒感の増大

この三大方針による中国のナショナリズムの高揚と「赤化(共産主義化)」の進行は、大正から昭和初期にかけての日本に大きな衝撃を与えた。特に中国国内における日貨排斥運動や権益回収運動の激化は、日本の大陸権益を直接脅かすものとして、外務省や陸軍に強い危機感を抱かせた。

また、日本国内においても、大正デモクラシー期から昭和初期にかけて社会主義運動や労働運動、農民運動が活発化しており、中国における「扶助工農」や「容共」の進展は、国内の治安維持や思想統制(1925年の治安維持法制定など)を強化する口実としても利用された。1927年に蒋介石が断行した上海クーデターによって三大方針は破棄され、国共合作は崩壊するが、この時期に形成された「中国の赤化に対する警戒感」は、その後の日本の協調外交から強硬外交(山東出兵や満洲事変など)への転換を促す一因となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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