海軍軍令部 (かいぐんぐんれいぶ)
【概説】
近代日本において、海軍の作戦立案や艦隊の指揮(軍令・統帥権)を専門に掌った天皇直属の最高機関。陸軍の参謀本部に相当し、軍政を担当する海軍省とは独立した権限を持っていた。昭和初期のロンドン海軍軍縮条約調印をめぐり、時の政府と激しく対立したことで知られる。
軍政・軍令の分離と海軍軍令部の確立
明治政府における軍制の整備が進むなか、当初、海軍の軍令権(作戦や指揮に関わる権限)は軍政(予算や人事などに関わる権限)とともに海軍省が一体となって握っていた。しかし、先行して軍令の独立を果たしていた陸軍参謀本部の影響や、海軍独自の作戦指導の専門性を高める必要性から、1893(明治26)年に海軍軍令部条例が制定され、海軍省から独立した「海軍軍令部」が誕生した。
これにより、海軍大臣(内閣の一員として軍政を担当)と、軍令部長(天皇の統帥を輔翼し軍令を担当)が並立する体制が確立した。この二元的な体制は、平時においては専門的な防衛計画の策定を可能にしたが、近代日本の憲法制度における「統帥権の独立」(軍隊の統帥権は内閣から独立し、天皇に直属する)を背景に、のちに政府との重大な決裂を生む要因となった。
ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題
海軍軍令部の存在が日本近変化史の転換点において決定的な役割を果たしたのが、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる動向である。当時の浜口雄幸内閣は、国家財政の再建と国際協調を掲げ、補助艦の保有量を制限する条約の調印をめざした。これに対し、当時の海軍軍令部長であった加藤寛治ら「艦隊派」と呼ばれる強硬派は、国防上の要請からアメリカへの妥協に強く反対した。
浜口内閣が軍令部の反対を押し切って条約に調印すると、軍令部や野党・立憲政友会などは「兵力量の決定は統帥権に属する事項であり、軍令部の同意なき調印は憲法違反である」として政府を激しく追及した。これが「統帥権干犯問題」である。この問題は、軍部が政治に対して優位に立つための格好の武器となり、結果として政党政治の弱体化と軍部の独走を許す決定的な引き金となった。1933(昭和8)年には「軍令部」へと改称され、権限がさらに強化されて、太平洋戦争へと至る軍国主義化の道を突き進むこととなった。