仁徳天皇 (にんとくてんのう)
【概説】
応神天皇の子とされる5世紀前半の大王(治天下大王)。日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に治定される人物。記紀においては善政を敷いた「聖帝(ひじりのみかど)」と称えられ、内政の充実や大規模な開発事業を主導した大王として描かれている。
「聖帝」としての伝承と治水・開拓事業
『古事記』や『日本書紀』において、仁徳天皇は「聖帝」として極めて高く評価されている。その代表的な逸話が「民のかまど」である。天皇が高台から国を見渡した際、民家から煙が立ち上っていないことから民の貧困を察知し、3年間にわたって租税や労役を全面的に免除した。この間、宮殿の屋根が破れても改修を控えたというエピソードは、儒教的な理想君主像の投影として後世に語り継がれることとなった。
しかし、仁徳天皇の治績の本質は、このような道徳的なエピソードに留まらず、具体的な国土開発の推進にあった。難波の堀江の開削や、日本最古の築堤とされる茨田堤(まむたのつつみ)の構築といった大規模な治水事業を行い、河内平野の湿地帯を肥沃な耕地に変えた。また、山背の栗隈大溝(くりくまのおおみぞ)の開削や、吉備の児島地方の開墾など、ヤマト政権の直轄地(屯倉)を拡大するための大土木事業を矢継ぎ早に展開した。これらは、技術的・組織的に大きく発展した当時のヤマト政権の土木技術と、それを支えた渡来人の渡来を示唆している。
巨大古墳の造営と河内王朝の実像
仁徳天皇の象徴とも言えるのが、大阪府堺市に位置する大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)である。墳丘長約486メートルに及ぶこの前方後円墳は、エジプトのクフ王のピラミッドや中国の秦始皇帝陵と並ぶ世界最大級の墳墓であり、日本最大を誇る。これほどの規模の墳墓を築くためには、延べ数百万人におよぶ労働力と、それを統率する高度な官僚制組織が必要であったと考えられており、当時の大王が保持していた権力の強大さを雄弁に物語っている。
また、この仁徳天皇や父の応神天皇の代を契機として、巨大古墳の造営地が大和盆地(三輪山周辺など)から河内平野(百舌鳥・古市古墳群)へと移動している。歴史学者の間では、この動向を既存の王統から新たな王統へと権力が移行した「河内王朝」の成立とみる説(河内王朝説)もあり、仁徳天皇はその過渡期および全盛期を築いた中心人物として位置づけられている。
「倭の五王」と5世紀の国際情勢
5世紀は、中国の歴史書『宋書』倭国伝に「倭の五王」として知られる倭国の大王たちが、南朝の宋に相次いで使節を送った時代である。仁徳天皇は、この倭の五王のうち、初代の「讃(さん)」、あるいは二代目の「珍(ちん)」のいずれかに比定されることが多い(一般的には、父の応神天皇が「讃」、仁徳天皇が「珍」とされる説、あるいは仁徳天皇自身が「讃」であるとする説などがあり、未だ特定には至っていない)。
当時の東アジア情勢は、朝鮮半島の高句麗が南下政策を強め、百済や新羅、そして加羅(任那)諸国が離合集散を繰り返す緊迫した状況にあった。ヤマト政権(倭国)は、朝鮮半島での軍事・外交的優位性を確保するとともに、最新の鉄資源や技術(渡来人)を獲得するため、中国皇帝から「安東大将軍」などの官爵を得て国際的権威の公認を求めた。仁徳天皇の時代とされる5世紀前半は、まさにこうした東アジア規模の動乱に対応すべく、国内の統合を急速に進め、外交カードを駆使したダイナミックな政治が展開された時代であった。