履中天皇 (りちゅうてんのう)
5世紀前半頃
【概説】
古墳時代の大王(天皇)で、仁徳天皇の第一皇子。中国の史書に登場する「倭の五王」の一人である「讃(さん)」の比定候補とされる人物。
仁徳天皇の後継者と「倭の五王」への比定
履中天皇は、記紀(『古事記』『日本書紀』)において仁徳天皇の崩御後を継いだ大王とされる。母は有力豪族である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ)である。歴史学において重要視されるのは、中国の『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」の初代である「讃」との関連である。「讃」の比定については応神天皇や仁徳天皇とする説もあるが、その名や在位年代の整合性から、履中天皇をこれに充てる説が有力視されている。この時代の大和王権は、中国(南朝)との外交関係(冊封関係)を通じて自らの権威を高め、朝鮮半島における軍事・外交的優位を築こうとしていた。
皇位継承をめぐる確執と治世の事績
記紀の記述によれば、履中天皇の即位前には、同母弟である住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が皇位を狙って反乱を起こすという事件が発生した。この乱は、もう一人の弟である瑞歯別皇子(のちの反正天皇)の活躍によって鎮圧され、履中天皇は無事に即位を果たすこととなった。即位後は大和の磐余(いわれ)に稚桜宮(わかざくらのみや)を営み、諸国に国境を画定させ、蔵職(くらつかさ)などの初期的な官制や、記録を掌る「史(ふひと)」を配したとされる。これらは、5世紀の大和王権が部民制などの支配機構を徐々に整備し、国家組織としての体裁を整えつつあった実態を反映している。