猶存社

高校日本史的重要度

【参考リンク】
猶存社(Wikipedia)

猶存社 (ゆうぞんしゃ)

1919〜1923年

【概説】
第一次世界大戦直後の1919(大正8)年、大川周明北一輝らを中心に結成された右翼・国家主義の思想団体。従来の親米英的な現状維持派右翼とは異なり、天皇を中心とするドラスティックな国家体制の変革を主張した、近代日本における国家改造運動の強力な理論的拠点。

結成の背景と「国家改造」の理念

第一次世界大戦の終結後、ロシア革命の成功や日本国内での米騒動、さらには大正デモクラシーの勃興などを背景に、社会主義思想や民主主義運動が急速に台頭した。これに対し、危機感を抱いた大川周明や満川寿吉らは、1918年に「老壮会」を結成。さらにその翌年、上海に滞在していた北一輝を呼び寄せ、国家の根本的な革新(国家改造)を目指す実働部隊として猶存社を結成した。社名は「支那革命の成果は失われたが、なお日本が存する」という意味に由来する。

猶存社の指導原理となったのは、北一輝が執筆した『国家改造案原理大綱』(のちの日本改造法案大綱)である。この中で北は、天皇を国民の代表者と位置づけ、憲法停止、貴族院廃止、私有財産の制限、皇室財産の解放などを実行し、軍事クーデターによって「改造日本」を建設することを唱えた。これは当時の既成の支配層や既存の右翼にとっても極めて革命的な内容であった。

内部対立による解散と昭和史への影響

猶存社は機関誌『雄叫(おたけび)』を発行し、軍人や学生、青年知識人に強い影響を与えたが、その活動期間は短かった。基本方針をめぐり、北一輝が「日本国内の改造」を最優先とし、対外的には慎重論を唱えたのに対し、大川周明はアジア解放(アジア主義)や対外拡張を重視し、既存の軍部や政界の有力者との連携を模索した。この両者の思想的・路線的対立が激化し、さらに1923(大正12)年の関東大震災後に起きた甘粕事件への対応などをめぐって亀裂が決定的となり、同年に猶存社は解散を余儀なくされた。

しかし、猶存社が蒔いた「国家改造」の種は、昭和初期の歴史を大きく動かすこととなった。大川はのちに行地社などを組織して民間右翼運動を指導し、満州事変五・一五事件の背後で暗躍した。一方、北一輝の思想は陸軍の「青年将校」たちにバイブルとして受容され、1936(昭和11)年の二・二六事件を引き起こす理論的支柱となった。猶存社は、大正期から昭和期のファシズム・超国家主義へと至るミッシングリンクを繋ぐ、きわめて重要な結節点であったといえる。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:44

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