永享の乱

1438年、将軍の足利義教が、対立していた鎌倉公方の足利持氏を討伐して滅ぼした事件を何というか?
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永享の乱 (えいきょうのらん)

1438年〜1439年

【概説】
1438(永享10)年、室町幕府第6代将軍の足利義教が、関東で対立を深めていた鎌倉公方の足利持氏を追討して自害に追い込んだ事件。この乱により鎌倉府は一時的に滅亡し、将軍の専制権力は強化されたが、同時に関東における長期的な戦乱の引き金ともなった。

鎌倉府の自立化と幕府との対立

室町幕府は東国十ヶ国を統治するための機関として鎌倉府を設置し、長官である鎌倉公方(足利尊氏の次男・基氏の家系)と、それを補佐する関東管領(上杉氏)を置いた。しかし、京都の幕府から地理的に離れていた鎌倉公方は、次第に独自の権力基盤を築き、幕府から自立する傾向を強めていった。そのため、将軍と鎌倉公方の間の緊張状態は、室町時代の政治的動向を左右する大きな要因となっていた。

将軍・足利義教と鎌倉公方・足利持氏の確執

第4代将軍・足利義持の死後、後継者指名がなかったため、くじ引きによって弟の足利義教が第6代将軍に就任した。一方、第4代鎌倉公方の足利持氏は、足利氏の血筋として自らが将軍職を継ぐべきだと自負していたため、義教の就任に強い不満を抱いた。持氏は年号が「正長」から「永享」に改元されてもそれに従わず古い年号を使用し続けるなど、露骨な反抗姿勢を示した。将軍権力の絶対化(「万人恐怖」と称された専制政治)を目指す義教にとって、持氏の存在は最大の障壁となっていた。

関東管領・上杉憲実との決裂と乱の勃発

1438(永享10)年、持氏が嫡子・義久の元服を幕府に無断で執り行ったことが直接的な引き金となった。通常、鎌倉公方の嫡子は将軍から偏諱(名前の一字)を受ける慣例であったが、持氏はこれを無視した。関東管領の上杉憲実は持氏を再三にわたり諫めたが受け入れられず、身の危険を感じて自身の領国である上野国(現在の群馬県)へ退去した。持氏が憲実討伐の兵を挙げると、憲実は幕府に救援を要請した。義教はこれを鎌倉府討伐の好機と捉え、後花園天皇から持氏を朝敵とする治罰の綸旨(じばつのりんじ)を獲得し、今川範忠らに持氏討伐を命じて関東へ出兵させた。

鎌倉府の一時滅亡と東国の戦国化

幕府軍が関東へ侵攻し、上杉憲実の軍勢とも合流すると、圧倒的な兵力差と朝敵となった不利から、関東の諸将は次々と持氏から離反した。追い詰められた持氏は出家して恭順の意を示したが義教はこれを許さず、翌1439(永享11)年、持氏と義久を鎌倉の永安寺で自害に追い込んだ。これにより鎌倉府は一時的に滅亡し、足利義教の将軍専制権力は頂点に達した。

しかし、この乱は東国における新たな戦乱の幕開けに過ぎなかった。翌年には持氏の遺児らを結城氏朝が擁立した結城合戦(1440年)が勃発する。さらに1441年、義教自身が赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱が起こると、幕府の権威は急速に失墜した。後に幕府の許可を得て再興された鎌倉府も再び分裂し、享徳の乱(1454年〜)と呼ばれる大規模な内乱へと発展する。永享の乱は、関東地方が中央に先駆けて事実上の戦国時代へと突入する決定的な転換点として、日本史において極めて重要な意義を持っている。

観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書 2443)

足利尊氏と直義の兄弟がいかにして対立し、室町幕府を未曾有の混迷へと陥れたのかを鮮やかに紐解く歴史の転換点。

室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書 496)

恐怖政治で幕府の再興を画策した将軍・足利義教の非情なる実像と、崩壊へと向かう室町体制の深淵を抉る歴史書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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