万人恐怖 (ばんにんきょうふ)
【概説】
室町幕府第6代将軍足利義教が行った、強力な独裁政治とそれに伴う苛烈な粛清が社会に与えた極限の緊張状態を指す言葉。皇族である伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に「万人恐怖」と記されたことに由来し、当時の公家や武家が抱いた深刻な恐怖感を表している。
「くじ引き将軍」の誕生と専制政治の背景
室町幕府第5代将軍足利義量が若くして病死し、さらに大御所として実権を握っていた4代義持も後継者を指名せずに没したため、将軍決定は石清水八幡宮の「くじ引き」に委ねられた。その結果、義持の弟で天台座主であった義円が還俗し、第6代将軍足利義教として就任することとなった。
くじ引きという偶然性によって選ばれた義教は、神意を背景にして自らの絶対的権威を確立しようとした。当時の室町幕府は有力守護大名の連合政権的な色彩が強く、将軍権力は必ずしも絶対的なものではなかった。そのため義教は、将軍の直轄軍事力である奉公衆を整備・強化し、守護大名に依存しない独自の基盤を固め、中央集権的な専制政治へと突き進むこととなった。
苛烈を極めた粛清と「万人恐怖」の到来
義教の政治手法は、自らの意に沿わない存在を容赦なく弾圧・排斥するものであった。守護大名に対しては、家督相続問題(家督争い)に積極的に介入し、一色義貫や土岐持頼らを殺害するなどしてその抑制を図った。また、公家社会に対しても徹底的な統制を加え、些細な不敬や非協力的態度を理由に、多数の公家が所領没収や蟄居処分に処された。
その矛先は有力寺社にも向けられ、幕府の権威に反抗的であった比叡山延暦寺に対しては、強硬な兵糧攻めを行い、最終的には根本中堂を焼失に追い込むほどの弾圧を加えた。さらに、幕府と対立を続けた鎌倉公方の足利持氏に対しては、1438年の永享の乱でこれを討伐し、徹底的に破滅させた。
このように、身分を問わず少しでも不満や反対の意を示せば容赦なく処罰される社会情勢に対し、貞成親王は日記『看聞日記』の1436年(永享8年)の条に「万人恐怖、言ふばかりなし」と書き記した。この言葉通り、当時の京都は誰もが明日の命を保証されない暗黒の恐怖政治に包まれていたのである。
専制政治の破局と「嘉吉の乱」
義教による過激な恐怖政治は、最終的に自らの身に破滅をもたらすこととなった。将軍による粛清の恐怖は、周囲の有力守護大名たちに「次は自分が標的になるのではないか」という強い危機感を抱かせる結果となった。
1441年(嘉吉元年)、播磨などの守護であった赤松満祐は、義教に家督を奪われるとの危機感から、自邸でもてなすという名目で義教を招き、その席上で彼を暗殺した。この事件は嘉吉の乱と呼ばれる。現職の将軍が臣下によって白昼堂々暗殺されるという前代未聞の事態により、将軍の絶対的な権威は失墜し、室町幕府の衰退と、のちの戦国時代へとつながる下克上の世の幕開けを象徴する出来事となった。