日本製鉄会社 (にほんせいてつがいしゃ)
【概説】
1934年、鉄鋼の自給体制を確立するために、官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄会社が合同して設立された半官半民の国策会社。昭和恐慌からの脱却と軍備拡張を背景に、国家主導の産業統制の一環として誕生した。戦時下の日本における重化学工業化を牽引し、国内の鉄鋼生産の大部分を支配した巨大独占企業である。
製鉄合同の背景と「製鉄業法」
第一次世界大戦後の慢性的な不況、そして1930年の昭和恐慌は、日本の鉄鋼業界に深刻な打撃を与えた。当時、日本の鉄鋼部門は官営の八幡製鉄所が大きなシェアを占めていたものの、民間製鉄会社との過当競争や、安価なインド産銑鉄の流入によって経営が圧迫されていた。また、1931年の満洲事変以降は軍備拡張による鉄鋼需要が急増し、軍部や政府内から「鉄鋼の完全自給体制」を望む声が強まった。
こうした中、政府は重要産業の国家統制を進めるため、1933年に製鉄業法を制定した。同法に基づき、国家資金が注入された半官半民の巨大合同会社として、1934年1月に日本製鉄株式会社(通称「日鉄」)が誕生した。この合同には、官営八幡製鉄所を母体として、輪西製鐵、釜石鉱山、富士製鋼、東洋製鐵、九州製鋼の民間5社が加わり、さらに翌年には三菱製鐵も合流した。これにより、日鉄は国内の銑鉄生産の約9割、鋼材生産の半分以上を支配する圧倒的な独占トラストとなった。
戦時統制経済における役割と限界
日本製鉄会社の設立は、商工省(現在の経済産業省)が進めた重要産業の「合理化」および「国家統制」の象徴的出来事であった。1937年に日中戦争が勃発して戦時統制経済が本格化すると、日鉄は軍需生産の中核として、増産体制を一段と強めていくこととなる。
日鉄は、国内のみならず植民地であった朝鮮の兼二浦製鉄所や、占領地・満洲(中国東北部)の資源・製鉄所とも連携し、帝国主義的な資源供給網を形成した。しかし、1941年に太平洋戦争へと突入すると、連合国軍による海上封鎖によって原材料(主に中国や東南アジアからの鉄鉱石や強粘結炭)の輸入が途絶した。これにより、末期には生産設備がありながらも操業ができない状態に陥り、日本の戦時経済の崩壊を象徴する結果となった。
戦後の解体と「新日鉄」への再編
敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の軍国主義を支えた経済基盤の解体に着手した。日本製鉄会社は巨大な独占企業であり、かつ軍需産業の中核であったことから、1950年に過度経済力集中排除法の適用を受け、分割・解体されることとなった。
この解体により、日鉄は主に民間企業の八幡製鐵と富士製鐵の2社(ほか日鉄汽船、播磨耐火煉瓦)に分割された。戦後の高度経済成長期において、この分割された2社は日本の基幹産業として競争を繰り広げ、奇跡的な復興を支えることとなる。その後、国際競争力の強化を目的として、1970年に八幡・富士の両社は再び合併し、新日本製鐵(新日鉄)が誕生した。これは戦前の日本製鉄会社が形を変えて事実上復活したものであり、日本の鉄鋼業界における合従連衡の歴史を示す重要な指標となっている。