天皇主権説
【概説】
大日本帝国憲法下において、国家の統治権は天皇個人に絶対的に属するとみなす憲法学説。東京帝国大学教授の上杉慎吉らが主張し、国家法人説に基づく天皇機関説と鋭く対立した。のちの昭和期における天皇機関説排撃や国体明徴運動の思想的伏線となった学説である。
美濃部・上杉論争と天皇主権説の提示
明治末期から大正初期にかけて、日本の憲法学界では大日本帝国憲法の解釈をめぐって大きな対立が生じていた。当時、法学者の美濃部達吉は、国家を一つの法人とし、天皇はその最高機関として統治権を行使するという天皇機関説を提唱し、学界や官界で主流の地位を占めつつあった。これに対し、天皇の絶対権力を擁護する立場から激しく反論したのが、同じく東京帝国大学教授の上杉慎吉であった。
上杉らの主張した天皇主権説は、国家と天皇を同一視し、統治権(主権)は天皇個人に固有のものであり、絶対的かつ無限のものであるとする君主権力説であった。1912年(明治45年/大正元年)には、美濃部と上杉の間で雑誌メディアを巻き込んだ激しい論争(美濃部・上杉論争)が展開され、憲法解釈のあり方をめぐる学問的・政治的対立が表面化した。
大正デモクラシー期の退潮と昭和期における事実上の国策化
大正デモクラシーの進展に伴い、立憲政治や政党政治を理論的に支える天皇機関説が事実上の公認学説となり、天皇主権説は学界において一時的に非主流派へと退いた。天皇主権説の前提となる「君主の絶対性」は、民本主義や政党内閣制の普及をめざす当時の政治的潮流とは相容れなかったためである。
しかし、1930年代に入り、軍部や右翼勢力が台頭して政党政治が崩壊すると事態は急変する。1935年(昭和10年)には貴族院において美濃部達吉の天皇機関説が不敬であるとして排撃される事件(天皇機関説排撃事件)が発生した。岡田啓介内閣はこれに屈する形で、天皇機関説を排して天皇絶対の国体を強調する国体明徴声明を発表した。これにより、かつて上杉慎吉らが唱えた天皇主権説的な国家観・憲法観が、事実上の国家的ドグマ(国策)として国民に強制されることとなった。