粛軍
【概説】
二・二六事件の後に、陸軍首脳部が断行した組織内の綱紀粛正および大規模な人事整理。事件を機に反乱の温床となった皇道派を一掃し、統制派主導のもとで軍内部の統制を急速に強化した。これにより軍部の一枚岩化が進み、政治への発言力がさらに強まることとなった。
皇道派と統制派の対立と二・二六事件
1930年代前半の日本陸軍内部では、北一輝らの思想に影響を受け、天皇親政のもとで国家改造(昭和維新)を強硬に進めようとする皇道派と、高度国防国家の建設に向けて官僚や財閥とも協調しながら合法的・計画的な軍部主導体制を構築しようとする統制派が激しく対立していた。1935年の相沢事件(皇道派将校による統制派リーダー永田鉄山の暗殺)などを経て両派の対立は極限に達し、1936年2月26日、皇道派の青年将校らが兵を率いてクーデター(二・二六事件)を敢行した。
この未曾有の反乱は、昭和天皇の強い怒りと迅速な討伐命令によって数日で鎮圧された。陸軍首脳部にとって、部下による反乱は軍の権威を失墜させる致命的な不祥事であり、二度とこのような事態を起こさないための抜本的な組織改革、すなわち「粛軍」の断行が必要不可欠となった。
徹底的な人事粛清と「軍部大臣現役武官制」の復活
事件直後に陸軍大臣に就任した寺内寿一は、統制派の全面的協力を得て、徹底的な人事整理に乗り出した。まず、反乱を直接指導した青年将校らや、思想的指導者であった北一輝らを非公開・一審制の特設軍法会議において迅速に死刑とした。さらに、事件に直接関与していなかった皇道派の重鎮(荒木貞夫、真崎甚三郎、川島義之ら)や、事件への対処で優柔不断な態度を示した多くの将校を予備役に編入し、軍中央から完全に追放した。
また、1936年5月には広田弘毅内閣のもとで軍部大臣現役武官制が復活された。この制度は後に関東軍や陸軍中央が気に入らない内閣を崩壊させたり、組閣を阻止したりするための政治的武器として猛威を振るうことになるが、復活させた本来の目的は、予備役に追放した皇道派の将官が陸軍大臣として政界に復帰し、軍内部に再び混乱をもたらすのを防ぐ(統制派による人事独占を維持する)ためであった。
「統制」の完成がもたらした軍部の政治的主導権の確立
粛軍の結果、陸軍内の二大派閥の争いは統制派の完全な勝利に終わり、軍内の秩序と統制は回復された。しかし、これは軍が政治への関与を辞めたことを意味するものではなかった。むしろ、軍内部が統制派の主導のもとに一枚岩となったことで、政党や内閣に対して「一元化された強力な軍の意志」を突きつけることが可能となった。
寺内陸相は「軍の革新」を掲げ、政治改革や予算要求など国政全般への介入を強め、広田内閣の政策立案を大きく主導した。軍の秩序を正すための「粛軍」は、皮肉にも軍部が政治への発言力を最大化させるための口実として利用され、日本が軍部主導の戦時総力戦体制へと本格的に移行する決定的な契機となった。