湾岸戦争
【概説】
1991年、クウェートに侵攻したイラクに対してアメリカを中心とする多国籍軍が武力行使を行い、勝利を収めた戦争。日本は巨額の資金援助を行いながらも国際的な評価を得られず、後のPKO協力法成立など、日本の安全保障政策と国際貢献のあり方に根本的な転換をもたらした。
イラクのクウェート侵攻と多国籍軍の結成
1990年8月、サダム・フセイン大統領率いるイラク軍が突如として隣国クウェートに侵攻し、同国を事実上併合した。冷戦終結直後の新世界秩序が模索されるなか、国際連合安全保障理事会はイラクの即時無条件撤退を求める決議を採択した。しかしイラクが撤退期限を無視し続けたため、1991年1月17日、アメリカ軍を中心とする計34カ国からなる多国籍軍が「砂漠の嵐作戦」を発動して空爆を開始し、湾岸戦争が勃発した。続いて2月末には地上戦が展開され、ハイテク兵器を駆使した多国籍軍の圧倒的な軍事力によってイラク軍は短期間で敗走し、クウェートは解放された。
日本の巨額拠出と「湾岸ショック」
湾岸戦争は、戦後日本の外交・安全保障において最大の試練となった。当時の海部俊樹内閣は、憲法第9条の制約により自衛隊の海外派遣や多国籍軍への直接的な軍事支援・後方支援を見送った。その代わりとして、臨時増税を財源とする計130億ドル(当時のレートで約1兆7000億円)という巨額の資金援助を実施した。
しかし、こうした日本の対応に対し、同盟国のアメリカをはじめとする国際社会は「カネだけ出して血と汗を流さない(小切手外交)」と厳しい冷笑と非難を浴びせた。終戦直後、クウェート政府がアメリカの有力紙に掲載した多国籍軍への「感謝広告」に参加国リストが載せられたが、そこに日本の名前がなかったことは、日本国内の政治家や外務省に深刻なトラウマを与え、これは「湾岸ショック」と呼ばれた。
自衛隊初の海外派遣とPKO協力法の成立
湾岸戦争における国際的孤立と挫折は、その後の日本の政策に劇的な変化をもたらした。停戦後の1991年4月、政府はペルシャ湾に敷設された機雷を除去するため、海上自衛隊の掃海艇部隊を派遣した。これは、実質的に自衛隊にとって初の海外派遣となった。
さらに、資金提供にとどまらない「人的な国際貢献」をいかに行うべきかが国内で最大の政治課題となった。海部内閣で廃案となった国連平和協力法案の理念は次の宮澤喜一内閣へと引き継がれ、1992年6月、激しい国会審議と野党の抵抗(牛歩戦術など)を経てPKO協力法(国際平和協力法)が成立した。同年、この法律に基づきカンボジア(UNTAC)へ自衛隊の施設大隊などが派遣され、日本は国連平和維持活動に本格的に参加する道を歩み始めた。湾岸戦争は、戦後長らく続いた日本の「一国平和主義」を揺るがし、日本の安全保障体制のあり方を根本から転換させた歴史的契機である。