トラウトマン工作
【概説】
日中戦争初期の1937年から1938年にかけて、ドイツの仲介によって進められた日本と中国(蒋介石の国民政府)との和平交渉。南京陥落後の日本側の強硬姿勢や条件吊り上げによって決裂し、日中戦争が泥沼化する決定的な契機となった外交交渉である。
日中全面戦争の勃発とドイツの仲介背景
1937年7月の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争は、同年に戦火が上海へと拡大し、全面戦争の様相を呈した。当時、日本の参謀本部(特に多田駿参謀次長ら非拡大派)は、将来的なソビエト連邦との衝突に備えるため、中国との戦争が長期化することを極力避けたいと考えていた。そこで日本政府は、日中双方と深い関係を持つドイツに和平の仲介を依頼した。
当時のドイツは、1936年に日本と日独防共協定を結ぶ一方で、中国(国民政府)とも緊密な経済・軍事関係(中独合作)を維持し、軍事顧問団を派遣していた。ドイツにとって、日中両国が交戦して消耗することは、東アジアにおけるソ連への対抗力を削ぐことを意味していた。そのため、ドイツの駐華大使オスカー・トラウトマンが仲介役となり、日中間の和平工作が本格化した。
和平条件の吊り上げと工作の破綻
1937年11月の交渉開始当初、日本側(広田弘毅外相)が提示した条件は、華北の非武装化や満州国の実質的容認など、国民政府側にとっても交渉の余地があるものであった。しかし、同年12月に日本軍が国民政府の首都・南京を占領すると、日本国内では勝利の熱狂が高まり、政府・陸軍内の強硬派が台頭した。これにより、日本側は賠償金の支払いや華北の特殊化など、中国側にとって到底受け入れがたい過酷な新条件へと要求を吊り上げた。
蒋介石は日本側の新条件に対する回答を保留し、慎重な姿勢をとった。これを「和平の意志なし」と判断した近衛文麿内閣は、1938年1月15日に交渉の打ち切りを決定。翌16日には「爾後国民政府を対手とせず」という、のちに第一次近衛声明と呼ばれる談話を発表した。これによりトラウトマン工作は完全に破綻し、日本は公式な交渉相手を自ら失ったことで、日中戦争は解決の糸口を失い、泥沼の長期戦へと突入していった。