第1次日露協約 (だいいちじにちろきょうやく)
【概説】
日露戦争の終結後、日本とロシア帝国の間で結ばれた東アジアにおける勢力範囲画定のための協定。かつての敵対国同士が互いの既得権益を相互に承認し合うことで、対立から協調へと関係を劇的に転換させた外交交渉である。
日露戦争後の国際環境と協約締結の背景
1905年のポーツマス条約によって日露戦争は終結したものの、満洲(中国東北部)や朝鮮半島をめぐる両国の対立火種は完全に消え去ったわけではなかった。日本国内ではロシアによる「復讐戦」への警戒感が根強く、ロシア側でも敗戦による権益喪失への不満が残っていた。しかし、両国ともに戦争による財政負担は限界に達しており、さらなる軍事衝突を避けて獲得した利権を確実に維持することが最優先課題となった。
このような状況下、ロシアの同盟国であったフランスが仲介役となり、まず1907年6月に日仏協約が締結された。これを呼び水として日露間の交渉も急速に進展し、同年7月に第1次日露協約が調印された。これによって日露両国は、清国の領土を共同で分割・支配する「帝国主義的談合関係」へと踏み出すこととなった。
協約の具体的内容と「秘密条項」による勢力二分
第1次日露協約は、対外的に公表された「公開条項」と、極秘にされた「秘密条項(秘密協定)」の二本立てで構成されていた。公開条項では、清国の独立と領土保全、および東アジアにおける「機会均等」といった、欧米列強(特にアメリカ)を刺激しないための原則論が掲げられた。しかし、本質は非公開の秘密条項に存在した。
秘密条項において、ロシアは日本の韓国(大韓帝国)における指導・保護権を全面的に承認し、引き換えに日本はロシアの外蒙古(モンゴル)における特殊権益を承認した。さらに、衝突の舞台であった満洲については、寛城子(長春)を境界として北満洲をロシア、南満洲を日本の勢力範囲とすることが明文化された。これにより、両国は実質的に東アジアの勢力範囲を等分し合う「住み分け」を完了させたのである。
協約がもたらした歴史的意義と大正期への展開
第1次日露協約の締結は、日本にとって朝鮮半島の植民地化を決定づける外交的後ろ盾となった。背後の脅威であったロシアとの妥協が成立したことで、日本は1910年の韓国併合へ向けて障害を取り除くことに成功した。
また、この協調関係は一回にとどまらず、のちに大正時代にかけて計4回にわたる日露協約の締結へと発展していく。満洲への進出を狙うアメリカに対抗するため、日露両国は排他的な共同利権体制を強化していき、第一次世界大戦期の第4次日露協約(1916年)にいたるまで、東アジアにおける強力な二国間同盟として機能し続けた。