借上

鎌倉時代に貨幣経済が浸透する中で登場した、年貢を担保とするなどして利息を取って金銭を貸し付けた高利貸を何というか?
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★★★

借上 (かしあげ)

【概説】
鎌倉時代に貨幣経済の進展を背景として登場した高利貸業者。
主に年貢の銭代納の請負や、御家人・農民に対する金銭・物品の貸付を行い、巨額の富を蓄積した。
御家人の没落の一因となったことから幕府の徳政令の対象とされたが、後の室町時代における土倉の源流となり、中世経済を大きく牽引した。

貨幣経済の浸透と借上の登場

鎌倉時代に入ると、日宋貿易などを通じて大量の宋銭(銅銭)が日本国内に流入し、社会に貨幣経済が急速に浸透していった。とくに畿内を中心とする先進地域や都市部では、荘園からの年貢を従来の米や絹布などの現物から、貨幣に換算して納入する代銭納(だいせんのう)が普及し始めた。このような貨幣の流通と信用経済の発達を背景として、13世紀頃(鎌倉時代中期)から現れたのが借上と呼ばれる金融・高利貸業者である。

借上の実態と業務内容

借上は最初から専業の金融業者として存在したわけではなく、当初は富裕な名主(みょうしゅ)や荘官、あるいは京都・鎌倉などの都市に住む有力な商人や手工業者が、蓄積した財力を元手に兼業として行うことが多かった。彼らの主な業務は、手元に現金を持たない武士(御家人)や農民に対し、土地や武具などを担保に金銭や米を貸し付けることであった。また、遠隔地の荘園領主への年貢納入を請け負うことも重要な業務であった。彼らは高い利息を取り、返済が滞れば担保としていた所領(土地)を没収して自らの土地集積を進めるなど、強大な経済的実力を蓄えていった。

御家人の窮乏と永仁の徳政令

鎌倉時代後期になると、分割相続による所領の細分化や、元寇(蒙古襲来)における軍役の負担などにより、多くの御家人が経済的に困窮するようになった。窮乏した御家人は借上から借金を重ね、最終的には先祖伝来の所領を借上に奪われる(売却・質流れ)事態が頻発した。武士社会の基盤が揺らぐことを危惧した鎌倉幕府は、1297年に永仁の徳政令を発布した。この法令では、御家人の所領の質入れや売買を禁じるとともに、これまでに借上や非御家人に渡った土地を無償で元の持ち主へ返還させる措置をとった。この政策は借上の活動に一時的な打撃を与えたものの、貨幣経済そのものの進展を止めることはできず、結果として金融の収縮による経済的混乱を招くこととなった。

中世経済における歴史的意義と土倉への発展

借上の存在は、単なる高利貸しにとどまらず、日本における金融システムと信用経済の基盤を築いたという点で歴史的に極めて重要である。鎌倉幕府の滅亡後、南北朝時代から室町時代に入ると、借上はさらに専門化・大規模化していった。質物を保管するための頑丈な土壁の倉庫(土倉)を持つようになったことから、彼らは次第に土倉(どそう)と呼ばれるようになる。また、酒屋と兼業する「酒屋土倉」も現れ、室町幕府の重要な財源として税(土倉役・酒屋役)を負担するほどの特権的資本家へと成長していく。借上は、中世から近世へと至る商業・貨幣経済発展の重要な出発点として位置づけられる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 鎌倉幕府の第2代将軍となったが、「十三人の合議制」によって実権を奪われ、のちに北条時政によって伊豆へ追放された人物は誰か?
Q. シャウプ勧告に基づく税制改革により、日本の税収の柱は間接税から何中心の体系へと転換されたか?
Q. 太政官符などを持たず、その任期中の国司個人の権限によって一時的に税の免除を認められた荘園を何というか。