ソヴィエト連邦(ソ連)
【概説】
1922年に誕生し、1991年まで存在した世界初の社会主義国家。ロシア革命を経て成立し、日本との間では日ソ基本条約による国交樹立や、それに伴う治安維持法の制定など、近代日本の政治・外交・思想統制に多大な影響を与えた。
世界初の社会主義国家の誕生とシベリア出兵
1917年に勃発したロシア革命により、レーニン率いるボリシェヴィキが政権を掌握した。資本主義体制の崩壊を危惧した日本をはじめとする連合国は、革命の波及を阻止すべく干渉戦争であるシベリア出兵(1918年〜1922年)を行った。日本は列強諸国のなかで最も多くの兵力を投入し、最後まで駐兵を続けたが、尼港事件などの犠牲を出し、国内外の強い批判を浴びて撤退を余儀なくされた。日本軍が撤退した同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの4共和国が結集し、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立した。
日ソ基本条約の締結と治安維持法
大正期における最も重要な日ソ関係の出来事が、1925(大正14)年の日ソ基本条約の締結である。加藤高明内閣の下で北京において調印され、両国は正式に国交を樹立した。これにより日本は北樺太の保障占領から撤退し、同地域における利権(石油・石炭の採掘権など)を獲得した。
しかし、日本政府は国交樹立に伴い、ソ連から社会主義・共産主義思想が国内へ本格的に流入することを強く警戒した。同年には男子普選を実現する普通選挙法が成立していたが、無産階級の政治的台頭と国体(天皇制)の変革を危惧した政府は、思想弾圧の強力な法的根拠として治安維持法を同時に制定した。国交正常化という外交的成果の裏で、国内では厳格な思想統制を敷くという「飴と鞭」の政策がとられたのである。
満州事変以降の軍事的緊張と国境紛争
昭和期に入り、1931年の満州事変を経て日本が傀儡国家である満州国を建国すると、日ソ両軍は長大な国境線を直接接することとなり、極東における軍事的緊張が一気に激化した。ソ連は第1次五カ年計画によって重工業化と軍備拡張を進めており、極東地域への防衛力を大幅に増強していた。
こうした状況下で、1938年の張鼓峰事件、そして1939年のノモンハン事件といった大規模な国境紛争が発生した。特にノモンハン事件では、近代化されたソ連軍の圧倒的な機械化部隊と航空戦力の前に、日本陸軍は甚大な損害を受けた。この手痛い敗北は、日本陸軍が伝統的に抱いていた北進論(対ソ開戦論)を事実上挫折させ、後の南進論(東南アジアへの進出)へと国家戦略を転換させる決定的な要因となった。
日ソ中立条約から対日参戦への転転
第二次世界大戦の複雑な国際情勢のなか、日本は南進政策を進めるにあたり北方の安全を確保するため、1941年に松岡洋右外相の下で日ソ中立条約を締結した。日本が太平洋戦争を戦っている間、ソ連もまた独ソ戦の最中にあったため、両国間には一時的な平穏が保たれた。
しかし、ドイツ降伏後の1945年2月に開かれたヤルタ会談において、アメリカ・イギリス・ソ連の間にソ連の対日参戦に関する密約(ヤルタ協定)が結ばれた。これに基づき、ソ連は1945年8月8日、日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦に踏み切った。ソ連軍の満州、樺太、千島列島への怒涛の侵攻は、原爆投下と並んで日本のポツダム宣言受諾(敗戦)を決定づける要因となった。また、敗戦後には約60万人もの日本人捕虜が極寒の地に連行され過酷な労働を強いられたシベリア抑留や、現在に至るまで日露間の最大の懸案である北方領土問題といった、極めて重大な歴史的課題を残すこととなった。
戦後の日ソ関係と国交回復
第二次世界大戦後、世界は東西冷戦の時代へと突入し、アメリカ陣営に属した日本とソ連の対立関係は続いた。1951年のサンフランシスコ平和条約会議においてソ連は調印を拒否したため、両国間の戦争状態は法的に継続したままであった。
この事態を打開したのが、1956年の鳩山一郎内閣による日ソ共同宣言である。これにより両国の国交は回復し、ソ連の支持を得た日本は国際連合への加盟を果たして国際社会への完全な復帰を遂げた。しかし、領土問題の解決と平和条約の締結は先送りされ、1991年にソ連が崩壊して現在のロシア連邦へと国家が引き継がれた後も、未解決のまま現在に至っている。