日ソ基本条約 (にっそきほんじょうやく)
【概説】
大正デモクラシー期の日本と、ロシア革命によって誕生したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)との間で結ばれた二国間条約。これにより日本はソ連を正式に承認して国交を樹立し、シベリア出兵以来の敵対関係に終止符を打った。
日ソ国交正常化への背景とシベリア出兵の処理
1917年のロシア革命によって誕生したソヴィエト政権に対し、日本はイギリスやアメリカなどとともに反革命派を支援する目的で軍を派遣した(シベリア出兵)。しかし、他国が1920年までに撤退した後も日本軍は駐留を継続し、多大な犠牲と戦費を費やしたことで内外の激しい非難を浴びた。1922年にはシベリア本土から撤退したものの、北樺太(サハリン北部)の占領は継続され、日ソ関係は極めて冷え切った状態が続いていた。
こうした状況下、ソ連政権の安定化が進むにつれて、日本国内では北洋漁業の利権確保や、北樺太の石油・石炭といった地下資源の獲得を目的に、関係改善を望む声が経済界を中心に高まっていった。また、国際的にもイギリスやフランスなどが相次いでソ連を承認したことで、日本も孤立を避けるために国交樹立へ舵を切ることとなった。
加藤高明内閣・幣原外交による条約の締結
1924年に成立した護憲三派の加藤高明内閣は、外相に幣原喜重郎を起用し、国際協調と積極的な対外通商を重視する「幣原外交」を展開した。幣原は対ソ国交樹立を重要課題に掲げ、北京において日本の芳沢謙吉公使とソ連のカラハン外交人民委員代理との間で本格的な交渉を進めさせた。
1925年1月20日、両国は「日ソ基本条約」を調印した。この条約により、日本はソ連を正式に国家承認し、相互に大使館を設置することに合意した。さらに、1905年の日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の有効性を再確認し、日本は北樺太から軍を撤退させる代わりに、同地の石油や石炭の開発利権(試掘・採掘権)をソ連から獲得することに成功した。
治安維持法との緊密な関連性
社会主義・共産主義の祖国であるソ連との国交樹立は、日本国内に社会主義思想が浸透する(いわゆる「赤化」)のではないかという強い危機感を、日本の支配層や元老、枢密院などに抱かせることとなった。
このため、加藤高明内閣は日ソ基本条約の批准にあたり、国内の思想的動揺を未然に防ぐための治安対策を講じる必要に迫られた。これが、同年(1925年)に実施された普通選挙法の制定と引き換えに、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を取り締まる治安維持法が制定された大きな要因の一つとなった。日ソ基本条約による国交樹立と治安維持法の制定は、大正デモクラシー期における対外融和と対内抑圧という、表裏一体の政策を象徴する出来事であった。