北樺太 (きたからふと)
【概説】
ロシア領である北緯50度以北の樺太(サハリン)地域。1920年に発生した尼港事件に対する報復と賠償の「保障」を名目に、日本軍が1925年の日ソ基本条約締結まで占領を継続した地である。
尼港事件と保障占領の背景
1918年、日本は連合国の一員としてロシア革命への干渉を目的にシベリア出兵を行った。その最中の1920年、間宮海峡に面したロシアの港町ニコラエフスク(尼港)において、赤軍系パルチザンによって日本軍守備隊および居留民約700名が虐殺される尼港事件が発生した。日本国内の世論は激昂したが、当時はロシア革命の混乱期であり、補償交渉を行うべき正規のロシア政府が存在しなかった。そこで原敬内閣は、将来樹立されるしかるべきロシア政府との間で賠償交渉を行うための「人質(担保)」として、ロシア領である北樺太を軍事占領(保障占領)することを決定した。
資源獲得の思惑とワシントン会議
北樺太の占領は、単なる軍事・外交上の報復措置にとどまらず、埋蔵が確認されていた豊富な石油や石炭などの軍需資源を確保するという、大日本帝国海軍や経済界の強い意図も背景にあった。しかし、1921年から開催されたワシントン会議において、アメリカをはじめとする列強から日本のシベリア干渉政策が厳しく批判されることとなる。日本は1922年までにシベリア本土(沿海州など)からの撤兵を完了させたが、北樺太の占領だけは「尼港事件の解決が未だ成されていない」という大義名分のもとで継続された。
日ソ基本条約と保障占領の解除
大正デモクラシー期の協調外交を推進した幣原喜重郎外相のもと、日本はソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)との国交樹立交渉を本格化させた。1925年1月、両国間で日ソ基本条約が締結され、日本はソ連政府を正式に承認するとともに、北樺太からの撤兵に合意した。その引き換えとして、日本は北樺太における石油・石炭の採掘権(50年間の租借権)を獲得し、国策会社である北樺太石油株式会社などを通じて資源の安定的確保を実現した。こうして同年5月までに日本軍の撤退が完了し、5年に及んだ北樺太の保障占領は終結した。