越中女一揆 (えっちゅうおんないっき)
1918年
【概説】
1918年(大正7年)7月に富山県の沿岸部で発生した、米価の高騰に苦しむ主婦らによる米の移出阻止行動。のちに全国へと拡大し、政治・社会に甚大な影響を与えた「大正米騒動」の直接的な発端となった出来事。
生活苦にあえぐ漁村の女性たちと米価暴騰
第一次世界大戦期の日本は「大戦景気」と呼ばれる好景気に沸いたが、同時に急激なインフレーションに見舞われ、一般庶民の生活は困窮した。特に主食である米の価格は、都市部への人口流入や地主・米商人の買い占め、さらに1918年に入ってからのシベリア出兵を見越した投機的な買いなどにより、異常な暴騰を見せていた。
富山県新川郡魚津町(現・魚津市)などの沿岸地域では、男性の多くが北海道へ出稼ぎに行くなどして不在であり、留守を預かる主婦たちが家計をやりくりしていた。米価の急騰は、彼女たちの生活を直撃し、日々の食糧確保すら脅かす事態へと発展した。
米の移出阻止と「女房一揆」の歴史的波及
1918年7月23日、魚津町の海岸に集まった漁師の妻ら数十人が、北海道へ米を輸送するために停泊していた伊吹丸への米の積み込みを阻止しようと抗議行動を起こした。これを皮切りに、近隣の滑川町や西水橋町などでも同様の暴動が発生し、米の県外移出の差し止めや、米の廉売(安売り)を求める嘆願行動が繰り広げられた。
この富山県沿岸部における一連の動きは、主に家計を預かる主婦(女房)層が主体となったことから、当時の新聞報道などで「越中女一揆」や「女房一揆」と称された。彼女たちの命がけの行動は全国に報じられ、同様の不満を抱えていた都市部の労働者や民衆を刺激し、全国的な規模での米騒動を誘発する引き金となった。この騒動は、当時の寺内正毅内閣を退陣に追い込み、日本初の本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生する決定的な契機となった。