上海
【概説】
近代の日中関係において、経済・政治・文化の摩擦の最前線となった中国最大の港湾・経済都市。アヘン戦争後に開港され、欧米列強や日本が設定した「租界」を足がかりに急速な発展を遂げた。大正期には日本の紡績企業(在華紡)が多数進出し、後に日中間の重大な衝突契機となる「五・三〇事件」の舞台となった。
列強の進出と「租界」の形成
上海は、1842年のアヘン戦争後に結ばれた南京条約によって開港された5港の一つである。開港後、イギリス、アメリカ、フランスなどの列強は、この地に独自の行政権や警察権を持つ外国人居留地である租界を建設した。後に英米の租界は統合されて「共同租界」となり、フランス租界とともに上海の中に「国中之国」とも評される特権的地域を形成した。
日清戦争後の1895年に下関条約が締結されると、日本を含む外国人は中国の開港場で製造業を営む権利を獲得した。これにより、上海は安価な労働力と原料を求める外国資本が集まる中国最大の工業・金融都市へと変貌を遂げ、日本もその進出競争に深く関わっていくこととなった。
「在華紡」の進出と日中間の労働摩擦
第一次世界大戦期から大正後期にかけて、日本の大手紡績企業は上海への進出を本格化させた。これらは在華紡(ざいかぼう)と呼ばれ、上海の近代工業において圧倒的なシェアを占めるようになった。在華紡は日本国内の工場よりもさらに安価な中国人の労働力を過酷な環境で酷使したため、現地労働者の間で強い不満が蓄積されていった。
この時期、中国国内では第一次世界大戦後の五四運動(1919年)などを経て、ナショナリズムや反帝国主義の機運が急速に高まっていた。さらにロシア革命の影響を受けた社会主義思想の流入もあり、上海の在華紡は労働争議や治安維持の面において、日中衝突の火種を抱える危険な最前線となった。
五・三〇事件の勃発と歴史的意義
1925(大正14)年5月、上海の日本系紡績工場(内外綿)で発生した労働争議の際、工場側が放った銃弾により中国人労働者の顧正紅が死亡する事件が発生した。これに激昂した学生や労働者らは、同年5月30日に上海の共同租界で抗議デモを展開した。このデモに対し、イギリス租界当局の警察が発砲して多数の死傷者を出した。これが近代日中関係史の大きな転換点となった五・三〇事件である。
五・三〇事件は上海にとどまらず、中国全土にわたる大規模な反帝国主義・排日・排英運動へと発展した。この運動は、中国の主権回復や不平等条約の撤廃を求める国民革命の動きを大きく加速させることとなり、大正期における日本の対中協調外交(幣原外交)を動揺させ、後の昭和期における軍事介入・満洲事変へとつながる日中対立の源流となった。