労資協調 (ろうしきょうちょう)
【概説】
労働者と資本家(経営者)が階級闘争による対立を避け、互いに妥協し話し合いによって労働問題の解決を目指す穏健な思想および運動方針。第一次世界大戦後の社会運動の高揚期において、過激な社会主義・共産主義運動の台頭を警戒する政府や財界、そして初期の労働団体によって模索・推進された。
大正デモクラシー下の労働運動と労資協調の背景
第一次世界大戦中の大戦景気とその後の戦後恐慌は、日本の産業構造を重化学工業化へと進展させたが、同時に急激なインフレーションを招き、労働者の生活を圧迫した。1918年の米騒動を契機に、労働者の権利意識は急速に高まり、全国各地で労働争議が頻発するようになる。
こうした中、1912年に鈴木文治らによって結成された「友愛会」は、当初は労働者の地位向上と人格修養、そして労資間の相互扶助を掲げる極めて穏健な労資協調主義の立場をとっていた。しかし、大正デモクラシーの進展やロシア革命の影響、さらにはILO(国際労働機関)の設立などによる国際的な労働基準の導入要求が高まるにつれ、労働者側は次第に戦闘化し、友愛会も「日本労働総同盟」へと改称して階級闘争路線へとシフトしていくこととなった。
協調会の設立と温情主義の限界
労働運動の過激化や社会主義思想の浸透に危機感を抱いた原敬内閣や財界(渋沢栄一など)は、1919年、半官半民の社会政策機関である「協調会」を設立した。これは労資の対立を未然に防ぎ、紛争を調停するためのものであり、日本における上からの労資協調路線の代表例であった。
当時の日本の資本家は、企業を一つの「家」とみなし、経営者を親、労働者を子とする「温情主義(家族主義的経営)」を掲げ、これを労資協調の精神的支柱とした。しかし、労働者側が求めたのは、単なる経営者からの恩恵的な処遇改善ではなく、近代的な権利としての労働組合の公認(団結権の確立)であった。政府や財界が労働組合法案の成立を阻止し続けたため、こうした精神論的な協調主義は徐々に説得力を失い、1920年代後半以降、労働運動は合法的妥協を排する左翼勢力と、体制内での改善を目指す右派・中間派へと分裂していくことになった。