マクドナルド(イギリス首相)
【概説】
イギリス初の労働党出身の首相。1929年に政権を握ると軍縮による財政立て直しと国際協調を掲げ、1930年のロンドン海軍軍縮会議の開催を提唱して海軍補助艦の制限合意を主導した政治家である。
労働党政権の誕生とマクドナルドの協調外交
ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald)は、イギリスの労働運動指導者から首相へと登り詰めた政治家である。1924年に初の労働党内閣を組織し、同年に退陣するも、1929年には第2次マクドナルド内閣を成立させた。彼の外交基本方針は、平和主義と国際協調に基づく軍縮の推進であった。当時、1921年から22年にかけてのワシントン会議によって主力艦の保有比率は制限されていたものの、巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの「補助艦」の制限については合意に至っておらず、日米英の列強間で建艦競争が再燃する兆しを見せていた。マクドナルドはこの状況を打破し、軍事費削減による国内経済の再建を目指した。
ロンドン海軍軍縮会議の提唱
1927年に開催されたジュネーヴ海軍軍縮会議が、補助艦の制限をめぐる英米の意見対立によって決裂すると、マクドナルドは再び軍縮の機運を醸成すべく動いた。1929年秋、マクドナルドは首相として訪米し、フーヴァー大統領との間で直接会談を行って補助艦制限に関する基本合意を取り付けた。この米英合意を背景に、マクドナルドは日本、フランス、イタリアを含む五大海軍国に対し、新たな軍縮会議の開催を呼びかけた。これが1930年に開催されたロンドン海軍軍縮会議である。会議においてマクドナルドは議長を務め、粘り強い交渉によって、日米英の三大国間における補助艦保有比率を定めたロンドン海軍軍縮条約の調印にこぎつけた。
日本史(昭和恐慌期)における歴史的意義と影響
マクドナルドが提唱したロンドン海軍軍縮会議は、近代日本の政治史において極めて重大な転換点となった。当時の日本は濱口雄幸内閣(幣原喜重郎外相)であり、金解禁にともなう緊縮財政(井上財政)を推進していたため、軍事費の抑制を求めてマクドナルドの提案に協調的であった。しかし、交渉の結果、日本側の主張した「対米7割」に届かない比率で妥協したことは、日本国内の海軍強硬派や野党・立憲政友会、右翼勢力の猛反発を招いた。これが、天皇の持つ統帥権を内閣が侵したとする「統帥権干犯問題」へと発展し、濱口首相の狙撃事件や、その後の政党政治の凋落、軍部の暴走を許す決定的な契機となった。マクドナルドが主導した国際協調の模索は、日本においては大正デモクラシー期から続く協調外交路線の終焉を加速させる皮肉な結果をもたらしたのである。