平沢計七 (ひらさわけいしち)
1889年〜1923年
【概説】
大正期の労働運動家、および労働劇を創始した劇作家。独自の「純労働者組合」を率いて労働者の自立を模索したが、関東大震災直後の混乱の中で軍隊や警察に拘束され、虐殺された(亀戸事件)。
労働運動の展開と「純労働者組合」の結成
平沢計七は新潟県に生まれ、上京後に鉄工などの労働に従事しながら、鈴木文治らが結成した友愛会に加入して労働運動のキャリアをスタートさせた。しかし、知識人主導の運動方針に疑問を抱くようになり、やがて労働者自身の直接行動による解放を重視する無政府主義(アナキズム)に接近していった。1920年には、労働者主体の運動を体現する純労働者組合を組織し、独自の労働運動を展開した。
また、平沢は劇作家としての才能も発揮し、労働現場の現実や労働者の苦悩をリアルに描いた戯曲を自ら執筆・上演した。この「労働劇」の試みは、のちのプロレタリア演劇運動の先駆的な実践として、大正デモクラシー期における労働者文化の形成に大きな足跡を残している。
関東大震災と「亀戸事件」での横死
1923年(大正12年)9月1日、首都圏を関東大震災が襲うと、未曾有の混乱の中で「社会主義者や朝鮮人が暴動を起こす」といった流言飛語が飛び交った。これに乗じた国家権力(軍や警察)により、かねてより監視対象であった社会主義者や労働運動家の排除・弾圧が容赦なく行われることとなった。
平沢は震災直後の9月3日、亀戸警察署に拘束された。そして9月16日夜から翌日にかけて、署内に収容されていた他の労働運動家らとともに、戒厳令下で治安維持にあたっていた軍隊(騎兵連隊)によって刺殺され、遺体は荒川放水路に遺棄された。この事件は亀戸事件と呼ばれ、甘粕事件と並び、国家権力が震災のドサクサに紛れて体制批判的な人物を不法に抹殺した「白色テロ」の象徴として、戦前の社会運動史において語り継がれている。