亀戸事件 (かめいどじけん)
【概説】
関東大震災直後の混乱期、東京府南葛飾郡亀戸町(現在の東京都江東区)の亀戸警察署において、労働運動家や社会主義者ら10名が軍隊によって不法に殺害された事件。大杉栄らが殺害された甘粕事件などと並び、震災時の戒厳令下で国家権力が社会主義運動を弾圧・抹殺した象徴的なテロリズム。
震災直後の戒厳令と「治安維持」の狂気
1923年(大正12年)9月1日、首都圏を襲った関東大震災により、東京とその周辺は壊滅的な被害を受けた。政府は直ちに戒厳令を敷き、軍隊を出動させて治安維持にあたらせた。この混乱の中で、「朝鮮人が放火している」「社会主義者が暴動を企てている」といった根拠のないデマが流布し、自警団や軍・警察によって多くの朝鮮人や中国人、そして日本の社会主義者が虐殺される事態が生じた。
当時、東京東部の労働運動の拠点であった南葛地域では、平沢計七(純労働者組合)や川合義虎(日本共産青年同盟)らが活発な労働運動を展開していた。地元の警察や憲兵隊は、震災の混乱に乗じて彼らが暴動を起こすのではないかと警戒を強め、震災直後の9月2日から3日にかけて、彼ら労働運動家や社会主義者を「保護検束」などの名目で次々と亀戸警察署に連行・留置した。
軍隊による不法虐殺の敢行
亀戸警察署に留置された活動家たちは、署内でも労働歌を歌うなど抗議の姿勢を崩さなかった。これに憤激した警察署長や、治安維持のために同署に駐屯していた習志野騎兵第13連隊の軍人らは、彼らの処刑を決定した。
9月3日夜から4日未明にかけて、平沢計七や川合義虎ら10名の運動家は、警察署の裏庭で軍隊の刺刀によって秘密裏に突き刺され、殺害された。遺体はそのまま署内の荒地に埋められたり、中川の川原に運ばれて焼却されたりしたとされる。殺害された10名の中には、震災の救援活動を行っていた活動家や、偶然居合わせただけの民間人も含まれていた。
事件の露呈と歴史的影響
事件後、遺族や労働組合が彼らの消息を尋ねたが、当局は「釈放した」などの嘘をつき、事件を徹底的に隠蔽しようとした。しかし、同年10月に遺体の一部が発見されたことや、新聞記者らの追及によってついに事件が明るみに出た。
労働団体は抗議運動を展開し、国会でも政府の責任が追及されたが、政府は軍の行動を「治安維持のためのやむを得ない措置」として正当化し、関係者の処罰は極めて軽いもの(事実上の不問)にとどまった。この亀戸事件や甘粕事件は、大正デモクラシー期における社会運動の昂揚に対して、国家権力が「非常事態」を名目に暴力的な圧殺を図った極めて暗い先例となり、後の治安維持法制定(1925年)へとつながるファシズム前夜の空気を作り出すこととなった。