近代オリンピック
【概説】
フランスのクーベルタン男爵の提唱により、1896年のアテネ大会から始まった世界的な総合スポーツ競技大会。日本は1912年の第5回ストックホルム大会で初参加を果たした。このオリンピックへの参加は、日本国内におけるスポーツの近代化や組織化、さらには大衆化を大きく推進する契機となった。
嘉納治五郎と日本のオリンピック参入
近代オリンピックにおける日本の歴史は、柔道の創始者であり東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長であった嘉納治五郎の尽力によって始まった。1909年、嘉納は創設者クーベルタンの意向を受けてアジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に就任した。嘉納は国際社会における日本の地位向上と、国内における体育・スポーツの普及を目指し、オリンピックへの選手派遣に向けて奔走することとなった。
嘉納は1911年に日本初の統一的スポーツ組織である大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を設立し、初代会長に就任した。同協会は翌年のオリンピック派遣選手を選考するための予選会を開催し、日本が国際スポーツ界へ足を踏み入れるための基盤を整えた。
1912年ストックホルム大会への初参加
1912年(明治45年/大正元年)、日本はスウェーデンで開催された第5回ストックホルム大会に初めて選手団を派遣した。この時参加した選手は、短距離走の三島弥彦(東京帝国大学)と、マラソンの金栗四三(東京高等師範学校)のわずか2名であった。
結果は、三島が敗退、金栗は猛暑による熱中症で途中棄権という厳しいものであった。しかし、世界の一流選手との実力差を痛感したこの経験は、その後の日本陸上界における競技力向上やトレーニング法の改善(金栗による高地トレーニングの導入や駅伝競走の創設など)に直結し、日本のスポーツ発展の記念碑的な一歩となった。
大正デモクラシーとスポーツの大衆化
近代オリンピックへの参加は、日本の社会や文化にも大きな変容をもたらした。大正時代に入ると、大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的な気風の高まりや、都市化の進展、さらに中等・高等教育の普及などを背景に、スポーツは一部のエリート層のものから一般大衆が親しむ娯楽へと変化していった。
学校教育において「体育」が重視されるようになり、新聞社などのメディアがスポーツ大会を主催・報道することで、国民のスポーツへの関心は急速に高まった。1920年のアントワープ大会ではテニスの熊谷一弥らが日本初のメダル(銀メダル)を獲得し、1928年のアムステルダム大会では織田幹雄(三段跳)が日本人初の金メダルを、女子陸上の人見絹枝が銀メダルを獲得したことで、オリンピックは日本のナショナリズムと深く結びつきながら、国民的な人気行事として定着していくこととなった。