雑誌『赤い鳥』
【概説】
大正から昭和初期にかけて刊行された、日本初の本格的な児童向け芸術雑誌。小説家の鈴木三重吉が創刊し、従来の教訓的なお伽話や官製唱歌を排して、高い芸術性を持つ童話や童謡の普及を目指した。芥川龍之介らの名作を世に送り出し、大正デモクラシー期における児童文学・自由教育運動の象徴となった。
創刊の背景と「子どもの発見」
1910年代後半から1920年代にかけての日本は、大正デモクラシーの進展に伴い、個人の尊厳や自由を重んじる気風がみなぎっていた。教育界においても、国家のための従順な国民育成を目指す従来の注入主義的教育への反省から、子どもの自主性や創造性を尊重する「大正自由教育運動」が興隆した。こうした「子どもの発見」とも言える社会的・文化的潮流を背景に、小説家の鈴木三重吉(夏目漱石の門下生)によって1918(大正7)年7月に『赤い鳥』が創刊された。三重吉は、当時の俗悪な絵本や、儒教的な教訓第一主義の「お伽噺」、官製の味気ない唱歌に強い不満を抱いており、子どもの純真な心に響く真の芸術的価値を持つ童話と童謡を提供することを目指したのである。
一流の表現者たちによる「芸術的児童文学」の開花
『赤い鳥』の最大の特徴は、それまで児童向け作品を本格的に手がけていなかった、一線級の作家や詩人、音楽家を動員し、児童文学・児童音楽を芸術の域へと引き上げた点にある。童話部門では、鈴木三重吉の熱心な呼びかけに応じた芥川龍之介が『蜘蛛の糸』や『杜子春』を発表したほか、有島武郎が『一房の葡萄』を、泉鏡花や小川未明らが優れた作品を寄せた。また、童謡部門では北原白秋や西條八十、野口雨情らが作詞を手がけ、これに成田為三や山田耕筰らが曲をつけた。白秋作詞・成田作曲の『かなりや』などは、従来の教育唱歌とは一線を画す新しい「童謡」の先駆となり、日本の音楽教育や大衆文化に多大な影響を与えた。
投稿欄の設置と大正自由教育への貢献
『赤い鳥』は単に既成の作家たちの発表舞台にとどまらず、読者である子どもたち自身による創作を奨励した。誌面に設けられた「綴方(作文)」、「童話」、「童謡」などの投稿欄は、子どもたちのありのままの生活や感性を引き出す場として機能した。特に鈴木三重吉自らが選者を務めた綴方欄は、虚飾を配した写実的な表現を重視し、後の生活綴方教育運動(児童にありのままの現実を作文に書かせることで、主体的な生活認識を育てる教育運動)の重要な源流となった。また、北原白秋が選者を務めた童謡投稿欄からは、後に優れた詩人が輩出されるなど、次世代の才能を育成する土壌ともなった。
児童文化の黄金期と運動の終焉
『赤い鳥』の成功は出版界に大きな刺激を与え、大正期には『金の船(のちの金の星)』や『お伽の世界』といった数多くの競合誌が創刊され、児童文化は黄金期を迎えた。しかし、1930年代に入ると、昭和恐慌による不況や軍国主義の台頭、さらには階級闘争を重視するプロレタリア児童文学運動などの新たな思想的潮流に押され、純粋芸術を標榜する『赤い鳥』の勢力は徐々に衰退していった。1929年に一時休刊したのち復刊を遂げたが、1936(昭和11)年の鈴木三重吉の死去をもって、その歴史に幕を閉じた。しかし、同誌が蒔いた「子どもを一個の人格として尊重し、その感性を芸術によって育む」という精神は、近代日本における児童文化の不滅の礎石となった。