鈴木三重吉 (すずきみえきち)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活躍した小説家、児童文学者。夏目漱石の門下生として文壇デビューを果たした後、1918年に児童文芸雑誌『赤い鳥』を創刊した。子どもたちの芸術的感性を育む「童話・童謡運動」を主導し、日本の近代児童文学および児童文化の基礎を築いた重要人物である。
漱石門下としての出発と児童文学への転身
広島県に生まれた鈴木三重吉は、東京帝国大学英文科に在学中、夏目漱石に師事した。1906年に発表した小説『千鳥』が漱石に激賞され、新進作家として華々しく文壇に登場する。その後も抒情的な作風で小説を執筆したが、私生活の困窮や創作の行き詰まりから、次第に大人のための小説執筆に行き詰まりを感じるようになった。
転機となったのは、自身の愛娘に語り聞かせるための良質な読み物が不足していることに直面したことである。当時、子ども向けに提供されていた読物は、江戸時代以来の説話をもとにした「お伽噺(おとぎばなし)」や、国家主義的な教訓を垂れる粗悪な出版物が主流であった。三重吉はこれに強い不満を抱き、子どもたちのために高い芸術性を持つ本物の文学・芸術を提供することを決意し、児童文学の道へと転身した。
雑誌『赤い鳥』の創刊と大正自由教育運動
1918年(大正7年)、三重吉は児童文芸雑誌『赤い鳥』を創刊した。この時期は大正デモクラシーの全盛期であり、教育界においても子どもの自主性や個性を尊重する大正自由教育運動が活発化していた。『赤い鳥』は、こうした時代精神と深く共鳴しながら展開していくこととなる。
三重吉の熱烈な呼びかけに応じ、当時の文壇を代表する超一流の作家たちが『赤い鳥』に作品を寄せた。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』や『杜子春』、有島武郎の『一房の葡萄』などの名作がこの雑誌から誕生した。また、児童による作文(綴方)や絵画の投稿欄を設け、子どもの素朴で純真な表現をそのまま認めて伸ばそうとしたことは、当時の学校教育にも多大な影響を与えた。
「童謡」の誕生と歴史的意義
『赤い鳥』のもう一つの大きな功績は、従来の文部省唱歌に代わる、子どものための芸術的な歌曲である「童謡」のジャンルを確立したことである。三重吉は詩人の北原白秋や西條八十、音楽家の山田耕筰らを起用し、子どもの生活感情に即した新しい歌の創作を推し進めた。これにより『かなりや』や『赤とんぼ』など、今なお歌い継がれる多くの童謡の名作が生み出された。
鈴木三重吉が主導した「赤い鳥運動」は、単なる児童向けの読物づくりにとどまらず、子どもを一人の独立した人間として尊重し、その精神世界を豊かに耕そうとする一大文化運動であった。彼のまいた種は、のちに日本の児童文学界を支える多くの作家を育成し、今日の豊かな児童文化の確固たる土台となったのである。