第4次伊藤博文内閣 (だいよじいとうひろぶみないかく)
【概説】
1900年10月に発足した、伊藤博文を内閣総理大臣とする明治期の日本の内閣。自らが結成した「立憲政友会」を与党とする本格的な政党内閣であったが、山県有朋系官僚や貴族院の激しい抵抗に遭い、短命に終わった。
立憲政友会の結成と「政党内閣」の誕生
明治政府の最高指導者の一人であった伊藤博文は、当初は天皇の官僚機構を重視する超然主義の立場をとっていた。しかし、帝国議会開設以降の政党との妥協や対立を経て、安定的かつ円滑な国政運営には政府を支持する強力な与党(政党)が不可欠であると確信するに至る。こうして1900年9月、伊藤は旧憲政党(旧自由党系)を吸収する形で自らを中心とする巨大政党立憲政友会を組織した。
直後の10月、政党の台頭を嫌い、政友会結成を契機に政権を放り出した山県有朋(第2次山県内閣)の後を受ける形で、第4次伊藤博文内閣が発足した。この内閣は、陸軍・海軍・外務の3大臣を除くすべての閣僚に立憲政友会の会員(幹部)を配する、極めて本格的な政党内閣の色彩を持った組織であった。
貴族院・山県系官僚の激しい抵抗
第4次伊藤内閣は発足直後から、政党政治の伸長を嫌う山県有朋および彼が率いる官僚勢力、そして保守的な貴族院から激しい敵視を受けた。特に山県派は、政党が国政の主導権を握ることに強い拒絶反応を示し、議会を通じて内閣を追い詰める画策を行った。
1901年、北清事変(義和団事件)の戦費調達などを目的とした増税案が議会に提出されると、貴族院は政友会主導の内閣を揺さぶるためにこの予算案・増税案を否決する動きを見せた。伊藤は明治天皇の勅語(和協の勅語)を仰ぐことで辛うじて予算を成立させたものの、政権の政治的求心力は大きく低下した。さらに、閣内において蔵相の渡辺国武が財政方針をめぐって積極財政の延期を主張したことから閣内不一致が発生し、伊藤は政権を維持できず、わずか7ヶ月余りで総辞職に追い込まれた。
藩閥対政党の転換点と「桂園時代」への布石
第4次伊藤内閣の崩壊は、藩閥政府が政党を完全に排除して超然主義を通すことも、また政党側が単独で安定した政権を運営することも、いずれも困難であるという明治中期の政治的限界を浮き彫りにした。伊藤博文はこの挫折の後、実務の第一線から退き、のちに政友会総裁の地位を西園寺公望へと譲ることになる。
この第4次伊藤内閣の終焉以降、日本の政治は、山県有朋の後継者である陸軍・藩閥閥代表の桂太郎と、伊藤博文の後継者である政友会総裁の西園寺公望が、妥協を交えながら交互に政権を担当する「桂園時代(けいえんじだい)」へと移行していく。その意味で、第4次伊藤内閣は、近代日本政治史における「藩閥と政党の全面対立」が「両者の共生・連立」へとシフトしていく過渡期の極めて重要な政権であった。