伝馬役(助郷役) (てんまやく(すけごうやく)
【概説】
江戸時代の主要な街道において、宿場町(宿駅)の人馬が不足した際、近隣の農村(助郷村)に対して人足や馬の提供を命じた賦役。本来は宿駅自身が負担すべき「伝馬役」を補完するための制度であったが、交通量の増大に伴って常態化し、農村経済に深刻な打撃を与えることとなった。
幕藩体制における交通・通信の要
徳川家康は全国支配を確立する過程で、1601年(慶長6年)から東海道をはじめとする五街道の整備に着手した。その際、街道沿いの一定の間隔に宿場町(宿駅)を設け、公用の書状や物資、役人をリレー形式で運ぶ宿駅伝馬制度(しゅくえきてんませいど)を確立した。この制度において、各宿駅に対して公用のために一定数の人足と馬(伝馬)を常備し、無償または公定の安価な運賃(御定賃銭)で提供する義務が課せられた。これを伝馬役(てんまやく)と呼ぶ。幕府は伝馬役という重い負担を強いる代償として、宿駅に対して地子銭(宅地税)の免除や、問屋場における荷物継立の独占権などを与え、宿駅を保護・育成した。
宿駅の困窮と助郷制度の成立
江戸時代初期の交通量は比較的限定されていたが、1635年(寛永12年)の参勤交代の制度化や、その後の商品経済の発達に伴い、大名の行列や一般の旅行者、物資の輸送量が激増した。これにより、宿駅が常備している「定の人馬」(東海道では各宿に100人・100疋)だけでは到底需要を賄いきれなくなった。宿駅は自力で外部から高額な賃金で人馬を雇い入れる必要に迫られ、慢性的な財政難に陥った。
この宿駅の困窮を救済し、幕府の生命線である街道交通の麻痺を防ぐために導入されたのが助郷(すけごう)制度である。宿駅周辺の村々を「助郷村」として指定し、宿駅の人馬が不足した際に、不足分を強制的に提供させる助郷役を課したのである。
定助郷と当分助郷
助郷には、その指定のされ方によって主に二つの形態が存在した。一つは、宿駅の日常的な人馬不足を補うために、近隣の村々から恒常的に編成された定助郷(じょうすけごう)である。1694年(元禄7年)に幕府は五街道の宿駅に対して大規模な助郷村の指定を行い、この制度は本格的に確立・固定化された。
もう一つは、将軍の上洛、朝鮮通信使や琉球使節の通行、大藩の参勤交代など、一時的に膨大な人足や馬が必要となる特別な通行の際にのみ、臨時で広範囲にわたって編成される当分助郷(とうぶんすけごう)である。規模に応じて「大助郷」や「加助郷」とも呼ばれ、これによって本来は街道から遠く離れた村々までもが助郷役に動員されることとなった。
農民への過重な負担と助郷一揆
助郷役は、指定された農村にとって極めて過酷な負担であった。人馬を提供した対価として賃銭は支払われたものの、公定価格であるため実際の市場価格を大きく下回っており、実質的な持ち出し(赤字)であった。さらに、農繁期であっても容赦なく人馬が徴発されたため、農業生産に深刻な悪影響を及ぼした。また、宿駅までの往復にかかる労力や宿泊費なども農民の自己負担であったため、農村経済は著しく疲弊した。
江戸時代後期に入ると、貨幣経済の浸透による物価上昇も相まって負担はさらに増大した。これに耐えかねた農民たちは、助郷村の指定取り消しや負担軽減を求める助郷一揆(すけごういっき)や強訴を全国各地で頻発させるようになり、幕藩体制の根幹を揺るがす深刻な社会問題へと発展していった。
近代化に伴う制度の終焉
幕末期には、外国使節の往来や幕府軍・長州軍などの軍隊の移動が頻発し、助郷役の負担は極限に達した。明治維新後、近代的な中央集権国家の建設と新たな交通・通信網の構築を目指す明治政府にとって、旧態依然とした宿駅伝馬制度は早急な改革の対象となった。
1871年(明治4年)の郵便制度の創設などを経て、翌1872年(明治5年)、政府は宿駅伝馬制度の廃止を布告した。これに伴い、250年以上にわたって交通を支え、同時に民衆を苦しめてきた伝馬役および助郷役も名実ともに消滅した。その後、陸運業は民間企業(陸運元会社など)による自由営業へと転換し、日本の物流は近代化への道を歩み出すこととなった。