立志社

1874年、板垣退助らが故郷の高知で設立し、のちに全国の自由民権運動の中心的な役割を担った政社は何か?
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立志社

1874年 – 1883年

【概説】
1874年、板垣退助や片岡健吉らが土佐(高知)に設立した政社。明治六年政変で下野した板垣らが帰郷して結成し、士族の救済と民権思想の普及を主目的として活動を開始した。初期の自由民権運動において全国的な中心拠点として機能し、後の愛国社や自由党の強力な母体となった。

設立の背景と目的

1873年(明治6年)の明治六年政変(征韓論争)に敗れて政府を去った板垣退助や後藤象二郎らは、翌1874年1月に東京で愛国公党を結成し、政府に対して民撰議院設立建白書を提出した。その後、板垣は故郷の土佐(高知県)へ帰郷し、同年4月に片岡健吉や林有造らとともに新たな政治結社を設立した。これが立志社である。

「立志」という名称は、当時ベストセラーとなっていたサミュエル・スマイルズの著書『自助論』の邦訳である『西国立志編』(中村正直訳)に由来する。設立の当初の目的は、秩禄処分などの近代化政策によって困窮する士族の救済(授産事業の展開)と、天賦人権論に基づく西洋の近代的な民権思想の学習・普及であった。当初は政府に不満を持つ不平士族を吸収する士族結社としての性格が強かったが、活動を展開する中で次第に豪農や平民層も参加するようになり、身分を超えた地域政社へと発展していった。

活動内容と全国運動への展開

立志社は単なる政治結社にとどまらず、法律や政治学を学ぶための学校(立志学舎)の設立、演説会の開催、新聞の発行などを通じて、民衆への先進的な思想啓蒙に努めた。この場には、後に日本国憲法のルーツの一つとも言われる私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した植木枝盛をはじめ、多くの優れた思想家や活動家が集った。

彼らの活動は土佐一国にとどまらず、全国の民権家に多大な影響を与えた。1875年(明治8年)、立志社は全国に点在し始めた政社を連携させるため、大阪での愛国社結成を主導した。これにより、立志社は名実ともに初期自由民権運動の全国的な中心拠点(総本山)となったのである。

西南戦争と「立志社建白」

1877年(明治10年)に西郷隆盛らが挙兵して西南戦争が勃発すると、立志社内でもこれに呼応して武力蜂起を主張する急進派が現れた。しかし、板垣や片岡らはあくまで言論による政府追及の路線を堅持し、武力闘争の動きを抑え込んだ。

この時、立志社は天皇の行在所であった京都へ片岡健吉を派遣し、「立志社建白」と呼ばれる建白書を提出しようと試みた。この建白書は、国会開設、地租の軽減、条約改正の推進など、当時の民権運動の主要な要求を論理的に訴えたものであった。建白そのものは政府に却下されたものの、その内容は広く報じられ、反政府運動の主流が「武力による反乱」から「言論による民権運動」へと転換する決定的な契機となった。なお、この過程で一部の急進派が密かに政府転覆を企てていたことが発覚し、多数の逮捕者を出す「立志社の獄」も引き起こしている。

国会期成同盟から自由党結成へ

西南戦争の終結によって武力反乱の道が完全に断たれると、全国の不平士族や豪農層は、立志社が示す言論・政治運動の路線へと急速に合流していった。立志社は一時活動を停止していた愛国社の再建に奔走し、1880年(明治13年)には愛国社を国会期成同盟へと発展改組させた。これが翌1881年(明治14年)の自由党結成へと繋がっていく。

その後、政府の弾圧策である集会条例の強化などにより、立志社自体は1883年(明治16年)に解散を余儀なくされた。しかし、同社が蒔いた民権思想の種は全国に広がり、国会開設や憲法制定を求める国民的なうねりを作り出した最大の原動力として、日本近代政治史において極めて重要な意義を持っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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