黄禍論 (こうかろん)
【概説】
日清・日露戦争における日本の急速な台頭を契機に、欧米社会で広まった黄色人種(特に日本や中国)を白人キリスト教文明に対する脅威とみなす警戒・排斥の言説。19世紀末にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって提唱され、アメリカにおける排日移民運動や対日世論の硬化に決定的な影響を与えた人種差別的思想である。
黄禍論の起源と外交的意図
黄禍論(イエロー=ペリル)という概念が国際政治の舞台に登場したのは、日清戦争(1894〜95年)の最中であった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、東アジアで急速に軍事力を台頭させる日本、および膨大な人口を抱える中国が結託し、将来的にヨーロッパの白人キリスト教社会を席巻・破壊するという「黄色人種脅威論」を唱えた。
ヴィルヘルム2世は、この思想を具現化した寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの神聖な財産を守れ」を画家クナックフースに描かせ、ロシア皇帝ニコライ2世ら各国首脳に送って結束を促した。この言説の背景には、単なる人種的偏見だけでなく、ロシアの関心をヨーロッパから極東(東アジア)へ逸らし、ドイツ東部国境の安全を確保するという高度な外交的権謀(三国干渉への布石)が存在していた。
日露戦争の衝撃と「脅威」の現実化
1904〜05年の日露戦争において、日本が近代史上初めて「白人帝国主義国」であるロシアを撃破したことは、欧米社会に決定的な衝撃を与えた。これにより黄禍論は、単なる架空の脅威論から「現実の軍事的・経済的脅威」へと変質することになる。
特に、日本からの移民が急増していたアメリカ合衆国西海岸(カリフォルニア州など)において、地元の労働者階級や農業経営者を中心に黄禍論は大衆的な排外主義運動と結びついた。1906年のサンフランシスコ公立学校における日本人児童隔離問題や、1913年のカリフォルニア州外国人土地法(第一の排地法)の制定など、法的な排除措置が相次いで講じられる土壌となった。
日米対立の激化と太平洋戦争への伏線
第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、日本は国際連盟規約に「人種差別撤廃提案」を盛り込むよう要求した。しかし、米大統領ウィルソンや、アジア系移民の流入を恐れるイギリス連邦(オーストラリアなど)の猛烈な反対によって却下された。この背景にも、欧米社会に根深く存在する黄禍論的警戒感があった。
その後、1924年に米国でいわゆる「排日移民法」が制定され、日本からの移民が全面的に禁止されると、日本国内では「白人支配に立ち向かうアジアの盟主」としてのナショナリズム(大アジア主義)が急速に台頭することとなる。このように、欧米が抱いた「黄禍論」による排斥と、それに対抗して日本が展開した「超国家主義」や「大東亜共栄圏」の論理は相互に刺激し合い、のちの太平洋戦争(日米開戦)へと至るイデオロギー的対立を決定づけたのである。