ノビスパン

田中勝介らが渡航した先である、現在のメキシコ(新スペイン)を当時は何と呼んでいたか。
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重要度
★★

ノビスパン (のびすぱん)

1521年〜1821年

【概説】
近世日本における、スペインの副王領「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」の呼称。現在のメキシコを中心とした北中米一帯の領域を指し、太平洋交易の拠点として機能した。江戸時代初期、徳川家康が直接貿易を求めて京都の商人・田中勝介らを派遣した渡航先として知られる。

太平洋をまたぐ交易ルートと家康の意図

大航海時代、アステカ帝国を征服したスペインは、1535年にメキシコを中心とする広大な支配地域にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設した。これを当時の日本では、ポルトガル語の呼称などに由来して「ノビスパン」と呼んだ。ノビスパンは、アジア側の拠点であるマニラ(フィリピン)と結ぶマニラ・ガレオン貿易の中継地であり、本国スペインへ莫大な銀を送る世界交易の中心地であった。

江戸幕府を開いた徳川家康は、西国大名が独占的に利益を上げていたポルトガルとの南蛮貿易に対抗するため、幕府主導の新たな外交・通商ルートの開拓を模索していた。家康が特に目をつけたのがノビスパンであった。そこから先進的な鉱山精錬技術(水銀を用いたアマルガム法など)を導入して国内の金銀山開発を促進させるとともに、太平洋を横断する直接通商ルートを確立しようとしたのである。

サン・フランシスコ号の漂着と田中勝介の渡航

1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴらを乗せてマニラからノビスパンへ向かっていたスペイン船サン・フランシスコ号が、暴風雨のため上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸に漂着した。家康および2代将軍・徳川秀忠は彼らを救助して手厚く保護し、ウィリアム・アダムス(三浦按針)らが建造した洋式船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」を提供して帰国を助けた。

この機会を利用し、通商交渉の端緒を開くために同行を許されたのが、京都の商人・田中勝介らの一行であった。1610年、勝介らは日本を発ち、日本人として初めて太平洋を横断してノビスパンのアカプルコ港に到達した。彼らは現地で熱烈な歓迎を受け、副王ルイス・デ・ベラスコとの会見を果たして家康の通商要求の書状を渡すなど、外交史上に残る足跡を刻んだ。

交渉の挫折と「鎖国」への転換

田中勝介の帰国時には、答礼使としてセバスティアン・ビスカイノが日本へ派遣された。さらに1613年(慶長18年)には、仙台藩主・伊達政宗が宣教師ルイス・ソテロや家臣の支倉常長らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号を建造し、再びノビスパンを経由してヨーロッパへ派遣する「慶長遣欧使節」を実施した。これにより、日本とノビスパンを結ぶ太平洋ルートは一時的に定着するかに見えた。

しかし、交易交渉は結実しなかった。スペイン側は自国の貿易独占権を守るために日本との直接交易に消極的であり、何よりも日本国内でのキリスト教布教の自由を強く求めた。これに対し、国内統制とキリスト教禁教政策を推し進めたい幕府との妥協は不可能であった。最終的に幕府は、1624年にスペイン(イスパニア)船の来航を禁止し、ノビスパンとの交渉の道も完全に閉ざされることとなった。その後、幕府はオランダや中国(清)との限定的な長崎貿易へと傾斜し、いわゆる「鎖国」体制を完成させていくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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