桂太郎
【概説】
山県有朋の後継者として長州閥(官僚・軍部)を率い、日露戦争や韓国併合などの重大局面を指導した明治から大正期の陸軍軍人・内閣総理大臣。立憲政友会の西園寺公望と交互に政権を担当する「桂園時代」を築き、日本の帝国主義的発展を推進した。通算在職日数は歴代2位を誇るが、最後は大正政変(第1次護憲運動)によって民衆の反発を浴びて退陣した。
陸軍軍人としての台頭と長州閥の継承
長州藩士の家に生まれた桂太郎は、戊辰戦争に従軍したのち、明治維新後は陸軍軍人としてのキャリアを歩んだ。ドイツへの軍事留学を経て兵制改革に尽力し、陸軍内で頭角を現した。日清戦争では第3師団長として出征し、戦後は台湾総督や各内閣の陸軍大臣を歴任した。
桂は、陸軍のドンであり保守派の巨頭であった山県有朋の厚い信任を受け、その腹心として官僚・軍部からなる長州閥を継承していく。政党政治を嫌悪した山県に対し、桂はより柔軟な政治感覚を持ち合わせており、のちに政党勢力との妥協を図りながら巧みな政権運営を行っていくこととなる。
第1次内閣の組閣と日露戦争の遂行
1901(明治34)年、第4次伊藤博文内閣が崩壊したのち、桂は初めて内閣総理大臣に就任した(第1次桂内閣)。当時、ロシア帝国の満州および朝鮮半島への南下が日本の安全保障上の最大の脅威となっており、桂内閣はこの国難に対処するため、1902年にイギリスとの間に日英同盟を締結した。
そして1904年、ついに日露戦争が開戦する。桂は総理大臣として、戦費調達や外交交渉などの戦争遂行を強力に指導した。1905年にはアメリカの仲介によりポーツマス条約を締結して講和を実現したが、賠償金が得られなかったことに対する国民の不満が爆発し、日比谷焼打事件などの暴動が発生した。この混乱のなか、桂は立憲政友会総裁の西園寺公望に密かに次期政権譲渡の約束を取り付け、総辞職した。
「桂園時代」の到来と韓国併合
第1次桂内閣の退陣以降、官僚・軍部・貴族院を背景とする桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会を率いる西園寺公望が、互いに妥協・協力しながら交互に政権を担当する桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれる政治的安定期が到来した。政党勢力の台頭を無視できなくなった桂が、政友会に利権を分与する代わりに議会での協力を得るという、一種の「妥協の政治」であった。
1908年に成立した第2次桂内閣では、日露戦争後の財政難や社会運動の激化に対応するため、戊申詔書を発布して国民道徳の引き締めを図るとともに、地方改良運動を推進した。また、1910年には社会主義者らを弾圧する大逆事件を引き起こしている。対外的には、同年に韓国併合を断行し、朝鮮半島を日本の完全な植民地支配下に置いた。さらに翌1911年には、外務大臣の小村寿太郎とともに日米通商航海条約を改正し、幕末以来の悲願であった関税自主権の回復を達成した。
大正政変と政治的挫折
1912(大正元)年、陸軍の2個師団増設問題から第2次西園寺内閣が崩壊すると、桂は内大臣兼侍従長という宮中の要職を辞して三度目の組閣を行った(第3次桂内閣)。しかし、宮中と府中の別(天皇の側近と行政府の分離)を乱すものであるとして、国民やジャーナリズムから強い反発を受けた。尾崎行雄や犬養毅らを中心に「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第1次護憲運動が全国規模で巻き起こったのである。
これに対し桂は、自らも新党(後の立憲同志会)を組織して政党政治体制で対抗しようと試みたが、議会を包囲する数万の民衆の怒りを鎮めることはできず、組閣からわずか53日で総辞職に追い込まれた(大正政変)。この挫折は桂の健康を大きく蝕み、退陣の同年(1913年)に失意のうちにこの世を去った。
歴史的評価と意義
桂太郎は、明治立憲制が完成し、日本が帝国主義列強の仲間入りを果たしていく激動の時代において、強力な指導力を発揮した政治家である。日英同盟の締結、日露戦争の勝利、韓国併合、条約改正の完了など、日本の国際的地位を飛躍的に高めた実績は極めて大きい。彼の通算在職日数2886日は、21世紀に安倍晋三に抜かれるまで、およそ1世紀にわたり日本の憲政史上最長記録であった。
一方で、その政治手法は官僚や軍部への依存が強く、最後は高まりゆく大正デモクラシーの波に飲み込まれる形で歴史の表舞台から去った。しかし、政党政治を絶対悪とみなした山県有朋とは異なり、政党との連携を図り、最後には自ら政党を組織しようとした点において、過渡期における現実的かつ柔軟な政治感覚を持った近代宰相であったと評価されている。