星宿図(天文図) (せいしゅくず(てんもんず)
【概説】
飛鳥時代後期(白鳳期)に築造された高松塚古墳やキトラ古墳の石室天井に描かれた、中国式の星座・天体配置図。天空の星々を配置した図像であり、当時の日本における天文学の受容と独自の宇宙観を現代に伝える極めて貴重な歴史史料。
古墳壁画に投影された中国式天体観と「二十八宿」
星宿図(天文図)は、高松塚古墳やキトラ古墳の凝灰岩製切石石室の天井部に描かれている。中国古代の天文学に基づき、天の赤道帯を28の区分に分けた二十八宿(にじゅうはっしゅく)と呼ばれる星座や、北極星を中心とする主要な星座群(紫微垣など)が、金箔や顔料(赤色の朱など)を用いて精緻に配置されているのが特徴である。特にキトラ古墳の天文図は、現存するアジア最古の本格的な科学的天文図として名高く、星座を繋ぐ線や、太陽の通り道である「黄道」および天の赤道を示す同心円が正確に描かれている。これらは、石室の壁面に描かれた四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)や、東壁・西壁に配置された「日像(太陽)」「月像(満月)」と一体となり、石室の内部に一つの完成された「小宇宙」を構成していたと考えられている。
東アジアにおける科学技術の伝播と観測地をめぐる議論
これらの星宿図は、中国(唐)から朝鮮半島(高句麗など)を経由して日本へもたらされた天文学技術の系譜を強く示している。特に高句麗の壁画古墳(三室塚古墳や薬水里古墳など)には、同様の四神図や天文図が描かれており、飛鳥時代の日本が大陸や半島の先進的な文化・技術を積極的に摂取していた証左である。近年の科学的な分析によると、キトラ古墳の星宿図に描かれた同心円の基準となる観測地の緯度は、当時の飛鳥(北緯約34.5度)ではなく、中国の長安・洛陽(北緯約34.8度)や、高句麗の都であった平壌(北緯約39度)付近の星空を投影したものである可能性が高いとされる。このことは、大陸で作成された高度な天文図の原図(あるいはそれを写した下絵)が、渡来系技術者らの手によって日本へ持ち込まれ、そのまま古墳壁画に再現された経緯を物語っている。
律令王権における天文学の政治的・宗教的意義
飛鳥時代から奈良時代にかけての日本(倭国)は、律令制の導入を急速に進めており、国家の象徴としての天皇を中心とする中央集権体制を構築しつつあった。この時代において、天体の運行を把握し「暦」を作ることは、王権が天命を受けた正当な支配者であることを証明する極めて重要な国家事業であった。天武天皇の時代には日本初の占星・天文・暦法を司る官司である陰陽寮(おんみょうりょう)が整備され、星の運行は国の吉凶を占う政治的判断の基準とされた。高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者は、天武天皇の皇子や高官、あるいは渡来系有力貴族と推測されているが、石室天井に星宿図を配することは、死後もなお天の秩序(宇宙の法則)に包まれ、永遠の安寧と天の庇護を得ようとする支配階級の強い意志、ひいては天の秩序と結合した独自の王権観の表れであったと言える。